モーリタニア旅行記その2イスタンブールでトランジット

 嘗て私が単独でモーリタニアの旅を考えていた頃は、モーリタニアへはパリ経由かモロッコを経由するしか無かったが、今ではトルコ航空が就航しているのでイスタンブール経由の一回の乗り継ぎでモーリタニアへ向かう事が出来る。

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 今回のツアーも勿論トルコ航空イスタンブールでは10時間以上の乗り継ぎ時間となるが、10時間以上の乗り継ぎの場合、トルコ航空はホテルを用意してくれるサービスがあるので安心だ。

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 トルコ航空の用意してくれたホテルで他のツアーメンバーは大人しく、これから始まる旅に備え英気を補充していたが、私はそんな時間も大人しくはしていられない。飛び出す様にイスタンブールの街へと向かった。

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 ホテルは新市街の奥にある立派なホテル。そこからメトロの駅まで歩いて旧市街へと向かった。其処への複雑な道は今ではスマホ・アプリのMaps.meを見れば簡単に辿り着ける。しかしメトロの発券機が50リラ札を受け付けない。マゴマゴしている私を言葉が全く通じないお姉さんが助けてくれた。

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 毎度書いている事だが、イスラームの人々は本当に旅人に親切だ。外国の人を助けたいけど言葉が通じないから…とは良く聞く言葉だが、それは言い訳に過ぎないのだろう。言葉が通じないは関係無いのだ。言葉が全く通じない彼女に助けられながらつくづくそう思った。ホームに到着すると私の乗る電車がまさに出発しそうな様子。彼女に急かされながらしっかり謝意を伝える暇も無く車内に駆け込んだ。

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 本当はアルカディア・ブルーと言うホテルのレストランからブルー・モスクを眺めたかったのだが、生憎営業時間には早過ぎたので、普通にイスタンブールの王道を散歩する事にした。ブルー・モスクからアヤ・ソフィアを眺め、トプカプ宮殿の脇を抜けてイスタンブールの心臓とも言えるエミノニュに出る。

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 対岸にガラタ塔を眺めながら港で名物鯖サンドを購入する。そして新しく出来たであろうガラタ橋からもうひとつ奥の橋の真上にある駅からメトロに乗って、皆の待つホテルへと帰還した。

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 イスタンブール、古の名はコンスタンティノープルビザンティン帝国オスマントルコ帝国、二つの巨大帝国の首都となった街。言い換えれば此処を制した者が巨大な帝国を築き上げた。

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 旅を続けていると前後の旅は何処かで何かが繋がっている。前回私を魅了したヴェネチアの街。そう言えばヴェネチアはこの街と深い因縁に満ちている。

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 創建当初ヴェネチアビザンティン帝国の影響下のもと発展を遂げた。そして貿易相手国として時に衝突を重ねながらも深い関係を保ち続けた。ヴェネチアがこれだけ発展を遂げたのもコンスタンティノープルからもたらされる交易に依るところが大きかったのは間違い無い。

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 一方ビザンティン帝国が滅び、この街がオスマントルコ帝国の首都イスタンブールと生まれ変わると、オスマントルコヴェネチアの驚異となり続け、オスマントルコヴェネチア制海権を争い合った。オリエント・エクスプレスはヴェネチアからイスタンブールを繋いでいたが、正に両者はオリエントの両雄だった。

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 そんな歴史に想いを馳せながらホテルへの坂道を歩いていると、けっつまづいてスマホを粉砕してしまった。道案内はMaps.me頼り。もう少し遠くで落としていたら、皆と合流出来なかったかもしれない。歩きスマホはご用心だ。

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 さて、こうして漸くモーリタニアへと向かう事となった私達。遥かな距離と思っていたが、いざ向かってみるとあっという間なものだ。新しく出来たと思われる空港、そして首都であるヌクアショット迄の道は思った以上に整備され、ツアーなので泊まったホテルも四ツ星で私がいつも泊まる様なホテルよりよっぽど立派。そんな訳で暗くなったホテル内では未々モーリタニアに着いた実感が沸かない。

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 しかしそれも明日になれば解決するに違いない。モーリタニア、いったいどんな国なのだろう?

モーリタニア旅行記序章

大変ご無沙汰してしまいました。

年末年始はモーリタニアで過ごしました。そのモーリタニアに行く途中立ち寄ったイスタンブールスマホを落としてしまい、帰国後交換等により時間がかかってしまいました。

 スマホの交換より何やらかにやらの設定の復旧が面倒ですね。此処に一苦労して漸くログイン出来ました(笑)。

 さて、なんで唐突にモーリタニアか?と聞かれれば、唐突と言うより時期を逸してしまった感さえ強くあります。2010年5月、私はモロッコに旅発った。イスラームの交易路を辿った西の果て。そう思い旅したモロッコで、私は交易路は更に南に延びている事を知った。

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 モロッコ、メルズーカ大砂丘、私は其処でサハラ砂漠の途方も無い広大な世界に感動していた。ありきたりな表現だが、この大自然を前にすれば人の存在なんて、なんてちっぽけなものだろうと。そして自分の悩み等塵の様なものだと。

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 しかしながらこの途方も無い世界を旅した古の商人達がいた事を想えば、人の持つ可能性もまた無限大に近いと感じた。そしてそんな彼等が目指した場所を旅したくなった。

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 そんな彼等が目指した場所トンブクトゥ。だが2011年リビアの争乱に始まったサハラの混乱により、私の旅もまた困難なものとなった。しかしアマドゥと言う信頼出来る現地旅行社のボスの尽力により私の夢は叶った。

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 一旦夢は叶ったものの、サハラに対する想いは消えず、だが彼等の交易路は最早情勢の悪化の為歩く事は叶わない。だがサハラ交易路はただ一本の道に有らず、中でもモーリタニアに点在する古のクサールを辿る道は未だ行く事が出来る。

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 しかしながらモーリタニアと言う国は殆ど観光地化が進んでおらず、移動やら宿泊に難儀しそうな事が多く、計画が頓挫していた。そんな2018年初頭、モーリタニアのマリ国境に近い地域の危険度が増し、4つあるクサールのうちの2つが訪問出来なくなってしまった。もうウカウカしていられない。

 そんな矢先、残された二つのクサールを巡る団体旅行が催行される事を知った。団体旅行は苦手だが、団体ならでは出来る効率の良さもある。特にモーリタニアでは個人の旅で効率の良さを追求する事は不可能に近い。それよりこの時を逃すまい。

こうして18年も暮れかけた22日、私は成田へと向かった。

未だ前回のやりなおしの旅が書けていませんが、モーリタニアを終え次第再開しようと思います。

年末年始のお知らせ

 世の中は情報に満ちている。そして我々はその情報を自由に自分の意思で取捨選択していると思っている。しかしその裏で実は自分で選択した筈の情報に操られ、踊らされている事も数多い。

 服の流行なんてその最たるものだ。流行は決して自然発生するものでは無く意図的に操られたものだ。そう、我々は常に情報に操られている。情報の統制されていると言っても過言では無い。自分で考えた事と思い込まされているに過ぎない。

 自己責任論もテロとの戦いも典型的な情報統制に過ぎない。そりゃそれらの言い分には一理あるが、詐欺師はそう思い込ませる事が彼等の仕事だ。我々の周囲を取り巻いている当たり前的に思っている事毎も、実はそう思わさせていた方が都合が良いからそう思わされてる事柄に満ちている。

 ただ我々には物事の真実をいちいち確かめている時間は無い。例えばパソコンがどうして起動するか?日常生活するのに、どうして起動するか知る必要も無ければ、不思議に思ってもGoogleで検索し、それを鵜呑みにする他無い。とても今からパソコンの仕組みを学び検証する気にはならない。

 ソビエトが崩壊し冷戦が終わった。とそれを待っていたかの様に湾岸戦争が始まり、アメリカの次のターゲットはイスラームに、そしてテロとの戦いに移っていった。戦争はビジネスだ。軍需産業が衰退しては国の防衛が成り立たない。軍需産業を成り立たせるには常に何処かに紛争が起きて無くては成り立たない。

 テロとの戦いは為政者にとって美味しい蜜の味だ。テロリストはロシアの様に核を持っていない。国では無いから宣戦布告も必要無い、裁判も検証すら必要無い。テロとの戦いの一言で世論は動き、その翌日にテロリストが潜伏していそうな地域に、そこに、一般市民がどれだけ暮らしていようとミサイルを叩き込む。もうやりたい放題だ。

 今じゃオリンピックを誘致するよりテロとの戦いはよっぽど儲かるに違いない。その真偽は関係無い、情報操作によって幾らでも真実は作る事が出来る。現代は火の無いところで幾らでも煙があげられる。

 9・11以来イスラームに対する世間の風当たりは最高潮に達した。まさに彼等の目論見通りだ。だけど当時の私は操られていた。貿易センタービルは思い出の場所でもあったからだ。だけど一方的で出来過ぎの展開に疑問も数多く生まれた。

 本当にイスラームは悪なのか?旅人を名乗るなら自らの目で確かめてみたい。それが私とイスラームの国々の出逢いだった。以来イスラームへの旅は私のライフワークとなった。いや今は単純に私が好きだから其処を目指している。使命感に燃えて嫌なのに我慢して旅を続ける程私は高尚な旅人では無い。

 2010年5月、モロッコ、メルズーカ大砂丘にて私は広大な自然を目の当たりにし何とも表現し難い感動を味わった。この大自然を前に、人間の業等ちっぽけなものだと…。しかし一方この無限に広がるサハラを越えて商いを行ったキャラバンがあったと言う。ならば人の可能性もまた無限に近いのではないかと。そして彼等が目指した先トンブクトゥが私の夢見る旅先となった。

 しかし時の情勢は急を遂げた。10年に起こったチュニジアの政変を切っ掛けに11年隣のリビアでも政変が起こった。リビアにはトンブクトゥを含むマリの人が多く出稼ぎに出ている。これはサハラに何か起こる。私はマリへの旅を急いだ。忘れもしまい11年11月25日私のバマコ到着を待ち受けたかの様に起こったトンブクトゥでのアルカイダによる欧州人誘拐殺害事件。事態を重く見たマリ政府はトンブクトゥから全ての旅人の撤収を命じた。

 それでも諦めきれない私を、現地旅行社のアマドゥは軍人まで手配して私をトンブクトゥに導いてくれた。バマコに凱旋し自宅まで招待してくれたアマドゥに尋ねた。

「どうしてそこまでして私をトンブクトゥに連れていってくれたのか?」

 アマドゥは応えた。

「この国にもうすぐ戦争が始まる。そうでもなったら全てが終わる。旅行業だけじゃない、飲食業、お土産屋、我々は全て繋っている。そうした手を繋いでこれまで積み上げてきたものが一瞬にして失われてしまう。私の国は貴方の国の様に豊かではありません。だけど沢山の歴史的な遺産がある。私はそれを紹介する仕事に誇りを持って生きてきました。だけどこの事件以来キャンセルの連続。もうオシマイです。そんな中貴方はどうしてもトンブクトゥへ行きたいと言った。私もどうしても行かせてあげたいと思ったのです。」

 お互いの顔はもうグシャグシャだった。誇り高い旅行代理店のボスに出逢えて私の夢は成就した。しかし翌12年4月アマドゥの恐れていた紛争がマリに始まった。あれから7年、未だ大部分は退避勧告が解けぬままだ。

 サハラの北部と南部を繋いだ交易の道、その出発点と到着地点を私は旅した。しかしその行程を私は未だ見ていない。当然そのルートにあたる部分は危険過ぎて旅が出来ない。だが西側のモーリタニアに残るルートは未だ比較的安全だ。しかしそんな西ルートも今年半分が危険度が上がってしまった。そんな中残された部分に赴くツアーが催行されるのを知った。

 このタイミングを逃すまい。それは私の苦手な団体ツアーだが、団体ならでは行ける部分もある。行程上殆どの宿泊がテントとなる冒険旅行だが、サハラ砂漠と嘗てそこを歩いた旅の商人達の想いを存分に楽しんでこようと思う。

 久しぶりに海外で年越しになります。モーリタニアの首都を出ればWi-Fiは勿論電話も人工衛星を経由した衛星電話のみの世界となります。

 では行って参ります。皆様良いお年を
そして早いですがあけましておめでとうございます。

旧ユーゴスラビアを旅する最終回

 ヴェネチア滞在も、いやこの度の旧ユーゴスラビアを巡る旅も、遂に最終日となってしまった。いつもよりも長めの一ヶ月と言う期間もあっという間の出来事だった。

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 最後に導かれる様に訪れたヴェネチアも二泊三日ではとても回りきれない程見所の詰まった街だった。マストな見所を回るだけでも十分時間がかかる。教会巡り、絵画鑑賞…ひとつひとつこなしていったら一年あっても足りるだろうか?

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 そんな中で私が最終日に選んだのは、そのどれでも無くただ街を歩くと言う事。それだけでも十分ヴェネチアは楽しい街だ。ヴェネチアを訪れる旅人は必ずサンマルコ広場とリアルト橋は訪れるだろう。そこへ行こうと思わずとも吸い寄せられる様に訪れてしまうものだ。

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 それらの場所では始終観光客で賑わっている。リアルト橋からサンマルコ広場までのメインストリートは渋滞が起きる程だ。しかしそれらを一歩外れるととても静かな通りもある。ちょっと道を尋ねたくとも人に見つけるのに苦戦する場所さえある。

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 そしてヴェネチアも人が暮らす街だから、当然下町の匂いが漂う場所もある。全く観光色の無い、市民向けの野菜を並べた屋台、地元の人々が集う食堂、洗濯物が干された路地裏。それらを見つけては嬉しく感じた。

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 それらは私が訪れた国々で形は変われど何処も共通する人々の生活があった。国々の違いを感じるのは旅の醍醐味だ。今回バルカン半島を巡り、オスマントルコオーストリア=ハンガリー二重帝国、そしてヴェネチアと言うこの地域の文化的影響を与えた三つの勢力圏、そして東方正教会イスラームそしてカソリックと言う三つの大きな宗教圏と言う大きな性格の異なる文化の違いを学び、そして楽しんできた。

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 しかし、その中でそのどれもに共通するものを見つける事もまた、旅の醍醐味のひとつである。ところ変われど、国が変われど、人々が暮らす姿、平和への想い、そうしたものは変わらない。形変われど、言葉変われど、その本質は全く変わらない。

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 旧ユーゴスラビア、25年前、血みどろの紛争が起きた地域を旅して、未だ傷跡が癒えぬ部分も幾つもあるが、そこで出会った人々の笑顔の変わらない事が何より嬉しかった。

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 そして最後にヴェネチアを訪れた。クライマックスに相応しい街だった。25年ぶりに訪れたヴェネチア、そしてその時ユーゴスラビアは紛争の真っ只中だった。そして私と母もある意味大きな紛争の中だった。もうその母もいない。

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 毎日、毎度、顔を合わせる度ぶつかっていたものだけど、その奥底ではお互い根っこで感じている事は共通していたのかもしれない。桟橋から私を乗せたヴァポレットが離れていく。サンマルコ広場の鐘楼が遠くにどんどん小さくなっていく。良い旅だった。

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「ありがとう!」

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 空に向かって小さく呟いた。

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旧ユーゴスラビアを旅する完全版+ヴェネチア編その4

 トルチェッロ島を後にして訪れたのは往きにトルチェッロ島に行く為に乗り継いだ島のブラーノ島。島を降りまっすぐ進めば原色に彩られた町並みが広がる。なんでまたこんな派手派手な家にしたのかと言うと、この島は漁師の島。漁師が漁に出て戻る時、濃霧がかかっていても自宅を発見し易い様に、この様なカラーリングになったと言われる。

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 それにしても綺麗に塗り分けられている。同じ色に塗りたくても、隣同士は違う色にしなければならないとか決められているのだろうか?青や緑なら良いが、ショッキングピンクの家は男は住み難そうだが、実際住んでいる海の男は如何なものなのだろう?

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 そんなカラフルな街並みに憧れて多くの観光客が押し寄せるブラーノ島だが、良く観察すれば確かに此処は漁師の街だと実感出来る風景に出逢う事が出来る。またこの島の女性が作るレース編みはかつてヨーロッパでも名高い名産品だったが、今では人材不足により消滅の危機に晒されていると言う。

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 そんな目が眩む様な原色の家が建ち並ぶブラーノ島を後に次に訪れたのはムラーノ島。女性ならピンとくる人もいるだろうが、ヴェネチアン・グラスで有名な島だ。どうしてこの島にガラスの工房が集まったのか?

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 それには幾つか説がある。ひとつはガラスを作る行程には多くの火が使われる。火災の原因となるものが住宅の密集する本島にあっては危険だったと言う事。もうひとつはヴェネチアン・グラスはヴェネチアにとって欠かせない交易品であるから、その製法が流出しない様に職人を離島に匿っていたと言う説が残っている。

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 離島のもうひとつの特徴は本島より密度が低い事。本島の密集感に閉塞感を感じたなら離島を訪れるのも良いかもしれない。ヴェネチア北部に位置する離島を楽しんだ後は本島に戻ってゴンドラを楽しんだ。

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 ヴェネチアのゴンドラは嘗てはヴェネチアっ子の足や配達に使われていたが、今では観光の為に使われ、その代金も高額な事で有名だが、私は訪れたなら必ず乗ると決めているし、相乗りはしない。これは私のこだわりだ。

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 ボーダー柄で統一されたゴンドリーエの鼻唄と共にゆったりとしたペースで巡る運河は風情がある。運河巡りは運河がある街のいずれでも行われているが、ヴェネチアだけは格別な想いがある。通常30分コースだが1時間かけてサンマルコ広場からリアルト橋までたっぷりゴンドラを堪能した。

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 その後サンマルコ広場からヴァポレットに乗ってジューデッカ島へと渡った。ジューデッカ島はヴェネチア本島の対岸の細長い形をした島で、その名の由来はユダヤ人が暮らしていたからとか幾つかの説がありハッキリしない。

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 私は25年前ヴェネチアに訪れた時、この島にあるユースホステルに宿泊していた。大きな部屋に無数のベッドがあるドミトリーに泊まっていた。今回も此処に泊まろうかとも考えたが立地上大人気の為か、とても相部屋とは思えない強気の価格設定に断念した。

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 泊まりはしなかったが、この島へ訪れ、25年前の私の眼力も間違っていなかったなとふと思った。此処からならサンマルコ広場からサン・ジョルジョ・マッジョーレ島まで一望する事が出来る。岸壁に腰掛け暮れていくヴェネチアの風景を眺めていると、ふと25年前の記憶が甦ってくる。

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 そうだ25年前、私は此処にいた。待てよ…。25年前と言う事は、ヴェネチアからそれほど離れていないこれまで私が辿ってきた国々、すなわち当時のユーゴスラビアは、ユーゴスラビア紛争の真っ只中だった訳だ。当時の私はそんな事も知らずに此処でサンマルコの風景を眺めていたのだ。記憶の点と線が結ばれていく。

「しっかり学びなさいよ!」

 空の上からあまり聞きたくない誰かの声が聞こえた気がした。

旧ユーゴスラビアを旅する完全版+ヴェネチア編その3

ヴェネチア二日目はヴェネチア離島巡りから開始する。ファンダメンテ・ノーボの船乗り場からヴァポレットに乗り込み、ヴェネチアの墓地となっているサン・ミケーレ島を通り越しブラーノ島へ、其処で船を乗り継いでトルッチェロ島を訪れた。

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(サン・ミケーレ島)
 もう現在では殆ど住民が住んでいないこの島は、ヴェネチアの本当の発祥地だ。ヴェネチア人は元々大陸に住んでいたイタリア人だ。しかし異民族の侵入を受け、逃げ場を失った彼等は、人の暮らし難い潟(ラグーナ)に逃げ込んだ。得ても何の得にならないラグーナなら、敵も見逃してくれるだろう。そう思ったからである。

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 その思惑は当たり、彼等は攻撃を受ける事は無かった。(その後西ローマ帝国は異民族の襲撃により滅んでしまう。)しかしラグーナでは家を建てる建材すら容易に手に入らない。彼等はラグーナで唯一採れる塩と干乾しの魚を売って生計を立て始めた。後にヴェニスの商人と呼ばれる程商売に精通したヴェネチア人のルーツが此処にある。彼等は得るものが無かったから、交易に生きるしか無かったのだ。

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(通称悪魔の橋)
 そんなヴェネチア人に更なる驚異が立ちはだかった。フランク王国の襲撃だ。フランク王国は得るものの無いラグーナをも見逃さなかった。しかしヴェネチアはかろうじてフランク王国を撃破する。海の満ち引きに精通していたヴェネチア人はそれを巧みに利用して数で圧倒するフランク王国を撃破したのだ。しかしこの事件によって、ラグーナのもっと奥へと移動しなければこの先危ういと言う事をヴェネチアは思い知らされた。

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 そんな矢先第二の不幸がヴェネチアを襲った。ラグーナの低地帯には所々水が滞留し、滞留した水は淀み腐り環境を悪化させた。そこに発生した蚊が媒体となってマラリアが大流行し、ヴェネチア人の命が多く失われた。

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 もう躊躇している暇は無かった。ヴェネチア人はラグーナの奥へと引っ越していった。それが昨日訪れたヴェネチア本島であり、リアルト橋界隈と言う事になる。

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 その際ヴェネチア人が一番気を遣ったのがラグーナの水を活性化させる事。すなわち水を絶え間なく流し続けると言う事。だからヴェネチア本島の高い部分を整地し、人が暮らせる部分とし、低く水路となっている部分を更に掘って運河とした。大自然の水の流れに逆らう事無く、大自然の設計した水路をそのまま利用して作られたのがヴェネチアなのだ。

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 運河と言えば人が手を加えた川と定義され、人が設計したからには、幾何学的だったり、効率的な配置になるのが普通だ。しかしヴェネチアの運河は、法則性が全く無く、まるで迷宮の様な造りになっているのは、先に述べた様に、水を滞留させない為、自然の水路をそのまま利用したからだ。すなわちヴェネチアヴェネチア人の途方も無い尽力によって出来上がった島である事に間違いは無いが、それを設計したのは大自然の成せる業であったと言えよう。

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 本島にヴェネチア人が移住した際、貴重だった建材は全て本島に解体され持ち去られたので、現在はトルッチェロ島に残されているのは二つの大きな教会だけだ。しかしそれを忍んで訪れる観光客やヴェネチアっ子は後を絶たない。

旧ユーゴスラビアを旅する完全版+ヴェネチア編その2

 さて今日からヴェネチアを本格的に歩く事にする。二度目とは言え25年ぶり、変化球では無く王道を旅しようと思う。それなら向かう場所はただひとつ、サンマルコ広場と言う事になる。

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 鉄道が敷かれた今でこそヴェネチアの表玄関はサンタルチア鉄道駅に多くの役割を分担する事となったが、船しか到着方法が無かった昔はサンマルコ広場こそがヴェネチアの表玄関だった。この広場にはヴェネチア共和国の聖と政の中心があった。

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 聖の中心はサンマルコ寺院。政治の中心がドッカーレ宮殿だ。サンマルコ寺院の前に広がる大きな中庭部分をサンマルコ大広場と呼び、ドッカーレ宮殿脇のラグーナに面する部分をサンマルコ小広場と呼ぶ。

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 広場の中心には高さ90メートルの鐘楼が建つ。再建されたものなのでエレベーターを持つ。歴史的建造物にエレベーターは無いと思うが、此処を訪れる観光客の量を考えれば、設置しなければ捌ききれないとも言える。

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 これまで見てきたロヴィニやピラン等の教会の鐘楼も全てこの鐘楼を模して建てられたもの、まさにヴェネチア共和国の威厳を示した鐘楼と言えよう。勿論そこからの眺めも最高だ。

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 続いてドッカーレ宮殿を訪れた。ドッカーレ宮殿はヴェネチア共和国時代の政治の中枢である。政治の中枢にあたる建築にしては、他のイタリアの都市国家に比開放的な造りとなっており、如何にヴェネチア共和国が平穏であったかを物語っている。ヴェネチア共和国の政治の特徴は約千年もの間、徹底した共和国体制を取った事だ。同じ共和国だったフィレンツェ等を見てもメディチ家の専横等共和国体制は一貫していなかった。

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 宮殿の内部には嫌と言う程名画が掲げられ、全て見てしまうと首が折れそうになるくらいだ。こうしたヴェネチア共和国の繁栄を象徴した部分から建物内の橋、所謂溜め息の橋を渡ると景観は一変する。そこは牢獄になっているのだ。

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 宮殿は国会議事堂の役割の他に裁判所の役割も兼ねており、そこで有罪が確定した罪人はそのまま溜め息の橋を渡り、牢獄へと送られた。そこで囚人達は橋から眺めるヴェネチアの景色を眺めては溜め息を漏らしたと言う。それがこの橋の名前の由来だ。

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 宮殿を出、サンマルコ広場の対面にあるコッレール美術館を訪れた。ドッカーレ宮殿とセットになったチケットだったからだ。此方は宮殿と比べ、当時のヴェネチアの富裕層の生活空間を垣間見る事が出来、また違った意味で興味深い展示だった。

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 サンマルコ広場に残る重要な建築、サンマルコ寺院はヴェネチアの聖の中心。正にヴェネチアの核となる建築であり、その寺院の存在があたかもヴェネチアの立ち位置をあからさまに示しているとも言える。詳しく書くと長くなってしまうので、次の旅となるやりなおしの旅でヴェネチアを書く時に残しておこうと思う。

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 サンマルコ広場を後にして、ヴェネチアのもうひとつの大きな見所リアルト橋へ向かった。此方はヴェネチアの発祥地であり、ヴェネチアの経済の中心でもあった。嘗て東方貿易で船で運ばれた物資は此処で売買され、陸揚げされ、ヨーロッパ各地へ運ばれていった。

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 リアルト付近には物資の種類毎に桟橋が設けられ、それに付随して様々な国々の商館が建てられた。リアルト橋脇に建つドイツ商館が現在ではDFS(デューティーフリー)に改装され賑わっている。ある意味現代風商館として再利用されていると言って良いかもしれない。

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 そのドイツ商館のテラスからヴェネチアを眺める事が出来る。昔は商船が行き来しただろうカナル・グランデを現在は観光客を乗せたゴンドラやヴァポレット(フェリー)が行き交っている。

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 リアルト橋の展望を楽しんだ後はヴェネツィアの見所のひとつサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会へと向かった。その途中カナル・グランデを渡る事になるのだが、修復途中のアカデミア橋を渡るくらいならとトラゲットに挑戦した。トラゲットとはカナル・グランデ渡し船で、カナル・グランデは橋は4本しか架かっていないので場所によっては便利な存在だし、ちょっとしたゴンドラ気分も味わえる。地元の人は立ち乗りだと言うが、立ってはとてもバランスが取れそうに無い。

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 サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会はペストの終焉を祝って建てられた教会だ。ペストは時にヴェネツィアの人口の三分の一を奪う程の驚異であって、ヴェネチアの人々がどれほどペストを恐れていたかが伝わってくる。

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 再びサンマルコ広場に戻りヴァポレットを利用してサンマルコ広場の沖合いに浮かぶ島に建てられたサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会に向かった。此処に建つ鐘楼から眺めるヴェネチアもまた素晴らしい。

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 その帰りヴァポレットに乗り込めば船尾の良い席が確保出来た。いっその事渡し船として利用するだけでは無く、終点まで乗ってみる。この船はジューデッカ運河を航行し、そのままカナル・グランデに入ってサンマルコ広場まで進み、更にリド島まで向かう。これに乗るだけでヴェネチアの主だった場所を航行してくれるクルーズ船だ。

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のんびりと船からヴェネチアの景色を堪能しリド島へ向かった。リド島はヴェネチアの一番外側に位置する島で、その外側は外洋、すなわちアドリア海だ。リド島はヨーロッパでも有名なリゾートビーチで、ヴェネチア映画祭が行われ世界のセレブが集う場所だ。

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 私が其処へ訪れた理由はただひとつ。アドリア海を眺めたかった事。この旅で、プドヴァ、コトル、ロヴィニ、そしてピランとアドリア海沿岸の美しい街を訪れた。そしてその街は全てヴェネチア共和国の支配地だった。そのアドリア海の女王と呼ばれたヴェネチアアドリア海を見ずして旅を終えるのは片手落ちだ。そしてしっかりとアドリア海に感謝の言葉を述べたかった。

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ありがとう!アドリアの海よ!