やりなおしの旅私的ロマンチック街道最終回
やりなおしの旅も最終日となった。ヴェネツィアでの最終日はちょっといつも自分では行かない様な場所へ行こうと思う。先ずはリアルト橋を眺めながら朝食を!
朝食を食べ終えたら魚河岸で活気を貰う。
約束の時間なので一旦サンマルコ広場へ向かって約束しておいた仮面を購入した。これで前回購入したものと合わせてカップルが出来上がった。
とんぼ返りでリアルト橋に戻った。
昨日楽しんだゴンドラを眺めながら今日の目的地へ向かう。
今日の最初の目的地はサンタ・マリア・グロリオーサ・ディ・フラーリ教会。
教会を訪れた理由はそこに飾られている絵。絵を目的にする事等絵に疎い私にとっては珍しい事だが、昨日アカデミア美術館を訪れ、豚も煽てりゃ木に登りたくなった。
荘厳な教会内部の中心にその絵はあった。
絵について疎い私が絵を批評する事は出来ないが、もしこの絵が美術館にあったとしたら私は見過ごしてしまったかもしれない。この素晴らしい絵はこの素晴らしい教会に飾られて本領を発揮するのだと思う。作者もこの教会に飾られる事を念頭にこの絵を描いたと思うから。そんな気がした。
絵で有名な建物に、教会のすぐ裏にあるスコーラ・グランデ・ディ・サン・ロッコ。スコーラとは同心会と言う意味でぶっちゃけると自治会の様なもの。中世では大きな力を発揮して、それに伴い多くの絵画が飾られる事となった。
会館にはヴェネツィアの絵画の巨匠ティントレットの絵がこれでもかと並んでいる。
最初私はこの絵を見て、訪れた事を後悔した。私は重々しい西洋画が苦手だったからだ。でもこの絵の重々しさには理由があった。
各スコーラでは信仰の対象が決まっており、此処ではペストに苦しむ人々を救った聖人ロッコを崇め、スコーラもペストに苦しむ人々を救っていた。そのペストに苦しむ人々の絵、救おうとする人々の絵が此処に飾られていたのだ。
その理由を知って後悔しそうになった事を後悔するに至った。私には絵の価値は解らないが、あの時代にペストと言う驚異に立ち向かった人々の気概を肌に感じる事が出来、とても感動する時間が過ごせた。
そんなこんなで私の滞在時間は過ぎ去り船着き場へ向かう時間が来た。ザグレブを経って大好きな街ロヴィニに到着して以来、殆どの街の旧市街は車が入って来れない街で時間を過ごした。此処ヴェネツィアもまた然りだ。
車と出くわさない生活、今の日本では考えられないがいざ過ごしてみると思っていた以上に快適な事だ。まず安心感が半端無い。そして精神的に落ち着く。せかされない。信号待ちも無い。勿論交通事故も無い。
観光していても重要な事だ。歴史的建築に想いを馳せていても横を自動車に走られては気分も台無しだ。車が無い環境がどれだけ人間に良いか?もう少し考えてみても良さそうな気がした。
やっと船着き場に到着した。メストレに出て鉄道で飛行場に行く手もあるが、ヴェネツィアなら船で行く一択だ。
今回の旅、本来未だ見ぬ地へ行きたい私にとって、やりなおして迄行こうとする時間は無い。だけど今回まるで導かれた様にやりなおしを決行し、そして行く先々でまるで奇跡の様な事が起こった。滅多に空席が出ないロヴィニの宿に三泊も泊まれた事しかり、天気もパーフェクト。アカデミア橋も想いの他修復が完了していたり、最後のレストランも演出がかっていた。これだけ重なると霊的な事を信じない私も何かあると思ってしまう。
そう考えると導いた人なんて一人しかいない。今は天国にいる口煩い貴女だろう。
この旅を貴女に捧げます。
ありがとう!
やりなおしの旅私的ロマンチック街道ヴェネツィア2
今回は動画を写したので残念ながら写真は無いが(下記の4travelのページのリンクからYouTubeにいけます。)途中私の泊まっているホテルの前を通過。ホテルの窓から見える綺麗な建物が郵便局のものと船頭さんが教えてくれた。その反対側が私の部屋だよ!と答えると船頭さんビックリしたりしてそんな会話も楽しかった。
楽しいゴンドラが終わったら、今回もまたDFSの屋上からヴェネチアの風景を眺めた。
サンマルコ広場がヴェネチィアの玄関口ならリアルトはヴェネチアの発祥地でありヴェネツィアの経済の中心だ。
さて夕陽も西に傾いてきた。もう一度サンマルコ広場を目指そう!
何故なら夕陽を浴びたその瞬間こそサンマルコ寺院の黄金のモザイクが輝きを増し、いっそうサンマルコ寺院を美しく飾るからだ。そんな場面でちょっと不安材料が。前回ヴェネツィアで仮面を買ったのだが、どう見ても相方の仮面を見つけたのだ。しかしゴンドラに乗り終えお店に向かうと生憎の閉店。どこでも買えるデザインでは無かったので大弱り。でももう一軒サンマルコ広場にその系列の店があったので、その店には無かったものの、翌日届けてくれる事を約束。ほっと一息。黄金に輝くサンマルコ寺院を暫し眺め続ける。
更に陽が傾いたので今度はアカデミア橋方面に
ここ周辺の夕焼けも好きな構図。
滅多に来れない大好きな場所だからゆっくりしていられない。
早くサンマルコ広場に戻らないと予約していたサンセットクルーズに間に合わん。
でもついつい立ち寄ってしまう。
ギリギリセーフで出港。
今朝も向かったサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会へ向かい急激に反転。
言葉が見つからない。
美しい…。
時が止まってしまえば良いのに。
船は日没後はリド島に向かい大きく弧を描いてカステッロ方面へ。途中サンマルコの鐘楼とサン・ジョルジョ・マッジョーレの鐘楼が並ぶ珍しい写真が撮れた。どっちがどっちでしょう?
カステロ地区の先端はアーセナルと言ってヴェネツィアの歴史的造船所。嘗ての海軍国ヴェネツィアを支えた場所。古めかしいドッグが続く。
こんな場所に遠くて行けなかったが、見たかった建築が船上から眺められ感動した。サン・ピエトロ・ディ・カステロ。共和国時代のヴェネツィアの大聖堂だ。それにしても遠い。東京で言えば新木場とかに大聖堂がある様なものだ。ヴェネツィア共和国は勿論敬虔なカソリック信徒だが、宗教を隠れ蓑にした外部の権力者には徹底的に与しないと言う意思表示が痛いほど伝わってくる。
ツアーはカステロ地区のレストランでワインを頂き、サンマルコ広場にて終了した。
やっぱりサンマルコ広場は夜も美しい。
さて、最後の晩餐は特別な街ヴェネツィアで特別な料理を頂きたい。と意気揚々にレストランを探したのだがどうもうまくいかない。
運河沿いに座って夕食を楽しみたいのだが、当方一人旅。そんな旅人しかも東洋人にそんな特等席を与えてくれるレストランなんて存在せず、どこもお断り…。しまいにふてくされてやっぱりバックパッカーらしく切り売りのピザでも…と思い始めた。
あなたの最大な敵は短期なあなた自身…。キレたり、諦めたりしなければ、もっとまともな人間になれるよ。
良く口煩いヴェネツィア好きの女性に窘められたっけ…。
と思いつつ?
なんだあの店は?
運河沿いのドアにテーブルがひとつ。
しかも空いてる。
そして予約もせずに入ったのに、笑顔で迎え入れてくださって
そして美味しい。
前菜のシーフードの盛り合わせだけで満腹。
私を断った店は正に前菜の前菜に過ぎなかったのでしょう。
最終日なので前菜もメインも盛り合わせです。
初めてデザートまで頼んだ(笑)
本当に素晴らしいお店で素敵な体験が出来ました。感謝感激でした。
やりなおしの旅私的ロマンチック街道ヴェネツィア2
サンマルコ広場。此処に来なければヴェネツィアの旅は始まらない。
私の大好きなアングル。ひとつの塔にはヴェネツィアの守護神サンマルコ。もうひとつは先代の守護神テオドーロの像が立つ。それなら聖なる場所かと言えば、処刑が行われた場所とも言われ、不吉だからヴェネツィアっ子はこの塔の間を通らないと言う。
因みにムーア人の時計塔の下はヴェネツィアっ子の待ち合わせ場所なのだそう。
ヴェネツィアでは宅配便も運河からです。
さてヴァポレットに乗ってサンマルコ広場対岸のサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会に向かおう。此処の鐘楼からヴェネツィアを眺めたいなら順光となる朝がお勧めだ。
今でこそ鉄道や飛行機が出来ましたが、長い歴史の中でサンマルコ広場こそがヴェネツィアの玄関口を勤めてきた。だからこそのこの外観。たまらない。
ブッキング・ドットコムで割引クーポンがあったので気になっていた建物に登ってみた。コンタリーニ・デル・ポーヴォロ。印象的な螺旋階段が目を引く。
屋上からサンマルコ広場を眺めた。
前回とは違う場所を求めて、アカデミア橋の修復完了が嬉しくて、絵なんか理解する能力も無い私が調子に乗ってアカデミア博物館に向かった。
朝見たサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会
スクォーラ・ディ・サンマルコ
サンマルコ広場
リアルト橋
行った事がある風景が、遥か昔目線で描かれていてとても興奮した。
余談だがルネッサンス時代のヴェネツィアをリアルに3Dで再現したゲームを楽しんでいるのだが、ゲーム内でも上記のカルパッチョ作のリアルト橋同様今とは違って石像では無く木造で感動してしまった。
アカデミア橋界隈は、美術館があるからか?本当に学校があるのか?名前がそうさせるのか?日本で言う学生街っぽい雰囲気があって私の好きな場所だ。そんな一角にゴンドラの製作所を発見した。此方は職人芸だ。
そして帰り道には勿論アカデミア橋からのこの風景。
そして再びサンマルコ広場に戻って鐘楼に登った。360度全方位見所の鐘楼は、太陽が真上にある時が一番の見時だと思う。先ずは朝イチに向かったサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会方面。
ヴェネツィア本島。
サンマルコ寺院を上から
そしてスキアボーニ皮岸を眺める。
共和国時代の大聖堂サン・ピエトロ・ディ・カステロ大聖堂は、この岬の突端あたりに位置する。とても歩けない…。
よっぽど嫌われていたのだろう。
そんなこんなでもう半日。長くなってしまうので今回は此処まで。
あんまりにも好きすぎて、同じ場所を繰り返してしまい中々新しい場所に繰り出せない。いっそ暮らしてしまいたい。ヴェネツィア…そんな街だ。
4travelのページ
https://4travel.jp/travelogue/11414504
やりなおしの旅私的ロマンチック街道ヴェネツィア1
ヴェネツィアの駅を降りた駅前から眺める開放的なヴェネツィアの風景。
実はそれはほんの一瞬の事。ヴェネツィアの街に足を踏み入れれば入り組んだ迷宮に方向感覚を失い、やっと出口に出たかと思えば運河に突き当たり阻まれる。
私が最初に訪れたヨーロッパの印象はとても悪いものだった。冬だったのがいけない。雨が多く寒い日が続いた。最初こそ新鮮だったがゴシック様式の重々しい建築群は次第に私を陰鬱とさせた。私が未だ若すぎて歴史の知識が乏しく、アジアなどの体験型の旅に興味が集中していた事もある。私はヨーロッパの長丁場の旅に退屈していた。そんな中ヴェネツィアだけは違った。心の中から興奮した。
私は家族と仲が常に悪かったが特に母親とは良く衝突した。事ある毎にお互いの価値観がぶつかった。母親が大のヨーロッパ好き。私のヨーロッパに対する偏見も此処に起因するかもしれない。だがお互いたった一点だけだが通じ合った思いもあった。ヴェネツィアだけは別格だと言う事。
その後私の旅の行き先はアラブ=イスラーム世界が本流となった。その中で特に私を惹き付けるものは街を歩いている時に感じる楽しさが別格な事。今思い返せば当時ヴェネツィアを歩いて感じた興奮に近いものを感じる。
私がヴェネツィアを愛する理由のひとつに私の故郷がそうだった様に運河に囲まれている立地と言う性質もあるかもしれない。だがヴェネツィアの運河は奇妙な程どうしてこうなったか解らない程入り組んでいる。運河は人工的に作られたものだから効率性を考えて掘られて然りの筈なのだが。
調べて見て驚いた。ヴェネツィアの運河は自然のままの設計なのだ。そう言った意味ではヴェネの運河は運河では無い。昔ヴェネツィア人は現在のヴェネツィアでは無くトルチェッロ島で暮らしていた。其処の干潟の水が停滞し不衛生化した事が要因でマラリアが発生、ヴェネツィア人が現在のヴェネツィアに移住する要因のひとつになった。だからヴェネツィア人は水を停滞させない事を最優先とし、干拓する時に、自然の水路を殺す事無く更に掘って運河にしたのだ。人が考えたデザインでは無いのだから解りにくくて当然なのだ。
解り辛い運河の意味は解ったが、迷宮の様な路地はどうしてだろう?それも今なら解る気がする。私はこの様な迷宮を良く歩いている。そう、イスラームの旅でだ。迷宮の中に突如現れる小さな広場と路地の感覚も似ている。イスラームの旧市街で良くある光景だが、イスラーム以前も地中海沿岸の街造りとして典型的な構成なのかもしれない。
そんな事に想いを馳せているとリアルト橋に出た。これを渡った場所に旧ドイツ商館がある。現在ではDFSだ。違った意味で現在でも商館となっている。さてこの商館をヴェネツィア方言でファンダコと言うらしい。私はそれを記載した本の作者が次に書かん事が事前に解った。アラブのスークに何処でもある商館。アラブではそれをフンドクと呼ぶ。アラブとも交易を行っていたヴェネツィアが交易の先輩格であるアラブから、その仕組みを頂戴していたとしてもおかしくは無い。
アラブとの交易を通じ、それを行き交ったのは商品だけでは無く文化も行き交ったに違いない。ヴェネツィアの街は東西の文化が入り交じっているがその中にはアラブのテイストも混じっている。母親と私の意見が一致したのは偶然では無く、ヨーロッパ好きは勿論、イスラーム好きをも虜にする双方の趣向を引寄せる魅力がこの街には詰まっているからだったのだろう。
そんなこんな考えを巡らせているとやっとホテルに辿り着いた。古めかしい窓のドアを開けるとゴンドラが目の前を通過していった。
早速散歩に出かけた。別件で足を向けたのだが、驚いた事に二ヶ月前は修復中で姿を見る事も其処からの展望も楽しめなかったアカデミア橋が修復を終えていた。イタリアにしてはグッドジョブだ。
やっぱりヴェネツィアに来てこの光景を眺めなくてはしっくりこない。
期待していなかっただけに嬉しい。
結局此処で夕焼けとトワイライトを楽しんだ。
その後定番中の定番サンマルコ広場へ向かった。サンマルコ寺院はヴェネツィアそのものの存在感を示すかの様な寺院だ。ナポレオンによる侵略によりヴェネツィア共和国は滅び、それ以降サンマルコ寺院はカソリック寺院のその街の中枢である大聖堂となったが、それ以前のヴェネツィアの大聖堂は街の外れも外れに追いやられていた。(共和国時代の大聖堂はサン・ピエトロ・ディ・カステッロ大聖堂で本当に本当に遠い。)これはカソリックを信仰するものの、カソリック教皇の影響は受けないと言うヴェネツィア共和国の方針そのもので、現在も尚ヴェネツィアっ子はサンマルコ大聖堂とは呼ばず寺院と呼ぶ。
聖堂はカソリック寺院とは想像も出来ない程ビザンティンの影響が強く、その内部を飾る絵画もあれほどルネッサンスの絵画を多く産み出したヴェネツィアであるいも関わらず、東方正教会の様な古典的絵画が飾られている。カソリックがヨーロッパを牛耳っていた時代に、ヴェネツィアは正にゴーイング・マイ・ウェイだった。そんなところも私がヴェネツィアを好む理由だ。
だからこそヴェネツィアはヨーロッパの中世の黒歴史に殆ど関わっていない。単なる侵略戦争の十字軍(大四次十字軍にヴェネツィアは参戦しているが、本来の聖戦であるエルサレムでは無く自国の利益を優先しコンスタンティノープルを攻めている。)単なる虐殺の歴史、魔女狩り。今では笑い話の地動説を宗教裁判で葬った科学との戦い…。そんなものとはヴェネツィアは無関係であったし、当時は発禁処分だった地動説の本を買う事も出来たそうだ。当時にあってヴェネチアは現代にも通ずる実利的、合理的な国だったと感じる。
そんなヴェネチアの最初の夕食はシーフード・パスタ。初日は軽く、明日は最後の晩餐だから豪華に行こうとするか!
やりなおしの旅私的ロマンチック街道コペルからトリエステ編
トリエステへ入って先ず郊外に建つミラマーレ城へ向かった。純白の城が紺碧のアドリア海に良く映えますが、此処の城主は余り幸せな人生を歩めませんでした。今で言う左遷です。遠くメキシコへ渡らされ、そこの領有が上手くいかず、そこで亡くなったそう。現在でも家を買った途端に転勤なんて良く聞く話だ。
市内に戻った。トリエステはイタリアで一番イタリアらしく無い街と言われる。その原因は嘗てこの地を領有したオーストリア帝国が唯一の外港として莫大な資金を投じて港町を作ったからだ。駅の前には女帝エリザベートの銅像が。
その為街の中心は整然としていてまるでオーストリアの街並みだ。
そしてカフェの発祥の国(ヨーロッパで)と言われるオーストリアだけあってトリエステはカフェで有名な街。と言う訳で私もエスプレッソを頂いた。ちょっと背伸びして1ユーロも高いエスプレッソを頼んだのだが、どうして高いのか飲んで解った。火を吹きそうになった。エスプレッソに非常に度数が高い酒が入っている。訳の解らん飲み物は要注意だ。
そんなトリエステにも丘の上の旧市街は本来のイタリアらしい街並みが広がる。
そんな丘の上に建つ城壁からトリエステを眺めた。入り口が解らず裏口に出てしまったが、係員のお兄さんが搬入用のエレベーターであげてくれた。チケットオフィスは此処には無いから勿論無賃入場だ。そんな緩さがイタリアらしい。
丘の上から眺めるトリエステ。支配する国が変われば街並みも変わってしまう。ヴェネツイ共和国、ウイーン帝国、ユーゴスラビア、スロベニア、そしてイタリア。目まぐるしく支配者が変わったこの街で、同じ街に暮らしているのに幾度も国名が変わった人々がいただろう。それがどう言う事なのか?国なんてものは生まれてから未来永劫あって当然などと考えてしまう我々には量り知れるものでは無い。
丘から下れば再びウイーン帝国の築いた理路整然とした街並みが広がる。ハプスブルグ家独特の、マリア・テレジアが愛したと言われるクリーム・イエローに彩られたビルもある。
しかし私はちょっぴりこうした理路整然とした街並みが苦手だ。やっぱり入り組んだ路地裏の迷宮を彷徨っていた方が良い。そろそろお暇しようか?私は鉄道に乗った。目指すは迷宮の街、そしてこの旅の終着地ヴェネツィアだ。
4travelのページ
https://4travel.jp/travelogue/11414499
やりなおしの旅私的ロマンティック街道ピランからコペルへ
先ずは城壁に登って定番中の定番の角度からピランを眺める。
城壁を降り美しい路地を辿り街の(岬の)先端へ。
そこから海沿いを歩いて海を眺めながら朝食を摂った。
そして前回風が強く乗る事が出来なかった岬を一周する観光船、今回やりなおしの旅で無事にやりなおしを達成、出港の時が来た。
ため息が出る様なアドリア海。
徐々に角度を変えるピランを眺めながら船は岬を半周。
半周した後はグラスボートで魚を鑑賞したりゆっくりして再び半周して港に戻る。船に乗らなければ見られない角度からお気に入りの美しい眺めを堪能する事が出来た。
ピランを後にして向かったのはイゾラと言う小さな街。この辺の言葉で島を意味し、昔は本当に島だったがロヴィニ同様埋め立てられ半島になった。
歴史も同様ヴェネツィア共和国の都市であり、嘗ては海運で繁栄したがペストの猛威や近いコペル、トリエステの繁栄に押され衰退していった。
今でも観光的にもピランに押され、この街に訪れる観光客の中にアジア人は殆どいないが、それだけ落ち着ける、そして美しい街だった。
こうしたヴェネツィア共和国の街を訪れ楽しい事はヴェネツィア共和国の紋章サンマルコ探しだ。サンマルコの特徴は翼を持ったライオンである事。大抵歴史ある門や市庁舎に飾られている。
イゾラを後にして今日の宿泊地コペルに移動した。コペルはここ周辺の中心都市であり移動の要でもあり、また海岸線の少ないスロベニアの重要な貿易港でもある。と言うとかなり忙しそうな都会に感じられるが、実際はそんな事は全く無い。
街の中心はピランやイゾラ同様ヴェネツィア共和国由来の趣のある旧市街が広がり外側を取り巻く新市街は広い敷地をゆったりとした配置に建物が建てられ歩道や自転車道もゆったり整備され、非常に心地好く歩く事が出来た。
ただ此処を訪れる大半の観光客はピランやイゾラを目指してしまう為、夜になると殆ど観光客は出歩いておらずこれまで滞在してきた街で一番ひっそりとした夜を送ったかもしれない。
これにてやりなおしは殆ど終わったのだが、未々旅は続く。次回は前回と違いコペルから国境を超え、イタリアのトリエステへ入り、そこからヴェネツィアへ向かう事にする。
やりなおしの旅私的ロマンチック街道ロヴィニからピランへ
いつもの様に素晴らしい朝。
大好きだった風景を心に焼き付けるべく、もう一度大好きだった場所を巡る。
朝食は宿を見渡す事が出来る軽食屋さん。
半島の反対側だって負けてない。
もうちょっと足を伸ばして
聖エウフェミヤ教会にも登ってみた。聖人さん三日間本当にありがとう!
未だ観光客が押し寄せないメインストリートも素敵だ。
猫ちゃん達さようなら!彼等は路地裏じゃなく、メインストリートが縄張りだ。
店の小扉が八百屋さんになってた。
もう一回軽食屋さんで珈琲を頂いた。これでクロアチアの通貨は使い果たした。思い残す事は無い。
と思いつつも後ろ髪を引かれながらバスステーションへと向かう。
ロヴィニからバスに乗りスロベニアの国境を超えピランに向かった。イストラ半島の美しい街、クロアチア代表がロヴィニならスロベニア代表はピランだ。共通する事は共に旧ヴェネツィア共和国の街と言う事。なんでヴェネツィアの街は素敵な街ばかりなのだろう!
ピランもまたロヴィニ同様海に突き出した岬に街が出来ている。私はこの街でもやりなおしたい事があった。前回風向きの関係で乗れなかった半島を周遊する観光船に乗る事。ピランを斜め上方から眺める事。私は船の予約を済ませると、望み通りに眺められる場所を探す事にした。
こいつが結構手間取った。位置的には十分想定していたのだが、見れる筈の場所は全て高級住宅に埋め尽くされて個人が入り込む余地が無い。やっとの事で望みの場所を探し当てた。普通ピランを紹介する時、城壁から真っ直ぐ岬を見下ろす写真が使われるが、斜めから見下ろす風景の方が立体感があり、私はそんな風景を眺めたかったのだ。
上の写真でも解る通り、ロヴィニに聖エウフェミヤ教会があった様に、ピランにも一番高い場所に聖ユーリ教会が建っている。
此方はロヴィニとは違って修復直後の出来立てホヤホヤ木の香りが薫ってきそうな螺旋階段を登る事が出来た。勿論眺めも抜群だ。
夕刻になったので、今度は王道に城壁に登ってピランの夕焼けを堪能した。
夕焼けが終わり城壁が閉門し、坂を下る途中のトワイライトも素敵だった。
勿論暗闇が訪れても素敵な風景は変わらない。
今日のシーフードはスカンピのグリル。
帰り道も素晴らしい。このまま歴史の何処かへ迷い込んでしまうのも良いかもしれない。
4travelのページ
https://4travel.jp/travelogue/11414162