やりなおしの旅私的ロマンチック街道ヴェネツィア1
やりなしの旅もあっという間に終着地ヴェネツィアに到着した。二ヶ月前に訪れたと言うのにやっぱり興奮してしまう。
ヴェネツィアの駅を降りた駅前から眺める開放的なヴェネツィアの風景。
実はそれはほんの一瞬の事。ヴェネツィアの街に足を踏み入れれば入り組んだ迷宮に方向感覚を失い、やっと出口に出たかと思えば運河に突き当たり阻まれる。
私が最初に訪れたヨーロッパの印象はとても悪いものだった。冬だったのがいけない。雨が多く寒い日が続いた。最初こそ新鮮だったがゴシック様式の重々しい建築群は次第に私を陰鬱とさせた。私が未だ若すぎて歴史の知識が乏しく、アジアなどの体験型の旅に興味が集中していた事もある。私はヨーロッパの長丁場の旅に退屈していた。そんな中ヴェネツィアだけは違った。心の中から興奮した。
私は家族と仲が常に悪かったが特に母親とは良く衝突した。事ある毎にお互いの価値観がぶつかった。母親が大のヨーロッパ好き。私のヨーロッパに対する偏見も此処に起因するかもしれない。だがお互いたった一点だけだが通じ合った思いもあった。ヴェネツィアだけは別格だと言う事。
その後私の旅の行き先はアラブ=イスラーム世界が本流となった。その中で特に私を惹き付けるものは街を歩いている時に感じる楽しさが別格な事。今思い返せば当時ヴェネツィアを歩いて感じた興奮に近いものを感じる。
私がヴェネツィアを愛する理由のひとつに私の故郷がそうだった様に運河に囲まれている立地と言う性質もあるかもしれない。だがヴェネツィアの運河は奇妙な程どうしてこうなったか解らない程入り組んでいる。運河は人工的に作られたものだから効率性を考えて掘られて然りの筈なのだが。
調べて見て驚いた。ヴェネツィアの運河は自然のままの設計なのだ。そう言った意味ではヴェネの運河は運河では無い。昔ヴェネツィア人は現在のヴェネツィアでは無くトルチェッロ島で暮らしていた。其処の干潟の水が停滞し不衛生化した事が要因でマラリアが発生、ヴェネツィア人が現在のヴェネツィアに移住する要因のひとつになった。だからヴェネツィア人は水を停滞させない事を最優先とし、干拓する時に、自然の水路を殺す事無く更に掘って運河にしたのだ。人が考えたデザインでは無いのだから解りにくくて当然なのだ。
解り辛い運河の意味は解ったが、迷宮の様な路地はどうしてだろう?それも今なら解る気がする。私はこの様な迷宮を良く歩いている。そう、イスラームの旅でだ。迷宮の中に突如現れる小さな広場と路地の感覚も似ている。イスラームの旧市街で良くある光景だが、イスラーム以前も地中海沿岸の街造りとして典型的な構成なのかもしれない。
そんな事に想いを馳せているとリアルト橋に出た。これを渡った場所に旧ドイツ商館がある。現在ではDFSだ。違った意味で現在でも商館となっている。さてこの商館をヴェネツィア方言でファンダコと言うらしい。私はそれを記載した本の作者が次に書かん事が事前に解った。アラブのスークに何処でもある商館。アラブではそれをフンドクと呼ぶ。アラブとも交易を行っていたヴェネツィアが交易の先輩格であるアラブから、その仕組みを頂戴していたとしてもおかしくは無い。
アラブとの交易を通じ、それを行き交ったのは商品だけでは無く文化も行き交ったに違いない。ヴェネツィアの街は東西の文化が入り交じっているがその中にはアラブのテイストも混じっている。母親と私の意見が一致したのは偶然では無く、ヨーロッパ好きは勿論、イスラーム好きをも虜にする双方の趣向を引寄せる魅力がこの街には詰まっているからだったのだろう。
そんなこんな考えを巡らせているとやっとホテルに辿り着いた。古めかしい窓のドアを開けるとゴンドラが目の前を通過していった。
早速散歩に出かけた。別件で足を向けたのだが、驚いた事に二ヶ月前は修復中で姿を見る事も其処からの展望も楽しめなかったアカデミア橋が修復を終えていた。イタリアにしてはグッドジョブだ。
やっぱりヴェネツィアに来てこの光景を眺めなくてはしっくりこない。
期待していなかっただけに嬉しい。
結局此処で夕焼けとトワイライトを楽しんだ。
その後定番中の定番サンマルコ広場へ向かった。サンマルコ寺院はヴェネツィアそのものの存在感を示すかの様な寺院だ。ナポレオンによる侵略によりヴェネツィア共和国は滅び、それ以降サンマルコ寺院はカソリック寺院のその街の中枢である大聖堂となったが、それ以前のヴェネツィアの大聖堂は街の外れも外れに追いやられていた。(共和国時代の大聖堂はサン・ピエトロ・ディ・カステッロ大聖堂で本当に本当に遠い。)これはカソリックを信仰するものの、カソリック教皇の影響は受けないと言うヴェネツィア共和国の方針そのもので、現在も尚ヴェネツィアっ子はサンマルコ大聖堂とは呼ばず寺院と呼ぶ。
聖堂はカソリック寺院とは想像も出来ない程ビザンティンの影響が強く、その内部を飾る絵画もあれほどルネッサンスの絵画を多く産み出したヴェネツィアであるいも関わらず、東方正教会の様な古典的絵画が飾られている。カソリックがヨーロッパを牛耳っていた時代に、ヴェネツィアは正にゴーイング・マイ・ウェイだった。そんなところも私がヴェネツィアを好む理由だ。
だからこそヴェネツィアはヨーロッパの中世の黒歴史に殆ど関わっていない。単なる侵略戦争の十字軍(大四次十字軍にヴェネツィアは参戦しているが、本来の聖戦であるエルサレムでは無く自国の利益を優先しコンスタンティノープルを攻めている。)単なる虐殺の歴史、魔女狩り。今では笑い話の地動説を宗教裁判で葬った科学との戦い…。そんなものとはヴェネツィアは無関係であったし、当時は発禁処分だった地動説の本を買う事も出来たそうだ。当時にあってヴェネチアは現代にも通ずる実利的、合理的な国だったと感じる。
そんなヴェネチアの最初の夕食はシーフード・パスタ。初日は軽く、明日は最後の晩餐だから豪華に行こうとするか!
ヴェネツィアの駅を降りた駅前から眺める開放的なヴェネツィアの風景。
実はそれはほんの一瞬の事。ヴェネツィアの街に足を踏み入れれば入り組んだ迷宮に方向感覚を失い、やっと出口に出たかと思えば運河に突き当たり阻まれる。
私が最初に訪れたヨーロッパの印象はとても悪いものだった。冬だったのがいけない。雨が多く寒い日が続いた。最初こそ新鮮だったがゴシック様式の重々しい建築群は次第に私を陰鬱とさせた。私が未だ若すぎて歴史の知識が乏しく、アジアなどの体験型の旅に興味が集中していた事もある。私はヨーロッパの長丁場の旅に退屈していた。そんな中ヴェネツィアだけは違った。心の中から興奮した。
私は家族と仲が常に悪かったが特に母親とは良く衝突した。事ある毎にお互いの価値観がぶつかった。母親が大のヨーロッパ好き。私のヨーロッパに対する偏見も此処に起因するかもしれない。だがお互いたった一点だけだが通じ合った思いもあった。ヴェネツィアだけは別格だと言う事。
その後私の旅の行き先はアラブ=イスラーム世界が本流となった。その中で特に私を惹き付けるものは街を歩いている時に感じる楽しさが別格な事。今思い返せば当時ヴェネツィアを歩いて感じた興奮に近いものを感じる。
私がヴェネツィアを愛する理由のひとつに私の故郷がそうだった様に運河に囲まれている立地と言う性質もあるかもしれない。だがヴェネツィアの運河は奇妙な程どうしてこうなったか解らない程入り組んでいる。運河は人工的に作られたものだから効率性を考えて掘られて然りの筈なのだが。
調べて見て驚いた。ヴェネツィアの運河は自然のままの設計なのだ。そう言った意味ではヴェネの運河は運河では無い。昔ヴェネツィア人は現在のヴェネツィアでは無くトルチェッロ島で暮らしていた。其処の干潟の水が停滞し不衛生化した事が要因でマラリアが発生、ヴェネツィア人が現在のヴェネツィアに移住する要因のひとつになった。だからヴェネツィア人は水を停滞させない事を最優先とし、干拓する時に、自然の水路を殺す事無く更に掘って運河にしたのだ。人が考えたデザインでは無いのだから解りにくくて当然なのだ。
解り辛い運河の意味は解ったが、迷宮の様な路地はどうしてだろう?それも今なら解る気がする。私はこの様な迷宮を良く歩いている。そう、イスラームの旅でだ。迷宮の中に突如現れる小さな広場と路地の感覚も似ている。イスラームの旧市街で良くある光景だが、イスラーム以前も地中海沿岸の街造りとして典型的な構成なのかもしれない。
そんな事に想いを馳せているとリアルト橋に出た。これを渡った場所に旧ドイツ商館がある。現在ではDFSだ。違った意味で現在でも商館となっている。さてこの商館をヴェネツィア方言でファンダコと言うらしい。私はそれを記載した本の作者が次に書かん事が事前に解った。アラブのスークに何処でもある商館。アラブではそれをフンドクと呼ぶ。アラブとも交易を行っていたヴェネツィアが交易の先輩格であるアラブから、その仕組みを頂戴していたとしてもおかしくは無い。
アラブとの交易を通じ、それを行き交ったのは商品だけでは無く文化も行き交ったに違いない。ヴェネツィアの街は東西の文化が入り交じっているがその中にはアラブのテイストも混じっている。母親と私の意見が一致したのは偶然では無く、ヨーロッパ好きは勿論、イスラーム好きをも虜にする双方の趣向を引寄せる魅力がこの街には詰まっているからだったのだろう。
そんなこんな考えを巡らせているとやっとホテルに辿り着いた。古めかしい窓のドアを開けるとゴンドラが目の前を通過していった。
早速散歩に出かけた。別件で足を向けたのだが、驚いた事に二ヶ月前は修復中で姿を見る事も其処からの展望も楽しめなかったアカデミア橋が修復を終えていた。イタリアにしてはグッドジョブだ。
やっぱりヴェネツィアに来てこの光景を眺めなくてはしっくりこない。
期待していなかっただけに嬉しい。
結局此処で夕焼けとトワイライトを楽しんだ。
その後定番中の定番サンマルコ広場へ向かった。サンマルコ寺院はヴェネツィアそのものの存在感を示すかの様な寺院だ。ナポレオンによる侵略によりヴェネツィア共和国は滅び、それ以降サンマルコ寺院はカソリック寺院のその街の中枢である大聖堂となったが、それ以前のヴェネツィアの大聖堂は街の外れも外れに追いやられていた。(共和国時代の大聖堂はサン・ピエトロ・ディ・カステッロ大聖堂で本当に本当に遠い。)これはカソリックを信仰するものの、カソリック教皇の影響は受けないと言うヴェネツィア共和国の方針そのもので、現在も尚ヴェネツィアっ子はサンマルコ大聖堂とは呼ばず寺院と呼ぶ。
聖堂はカソリック寺院とは想像も出来ない程ビザンティンの影響が強く、その内部を飾る絵画もあれほどルネッサンスの絵画を多く産み出したヴェネツィアであるいも関わらず、東方正教会の様な古典的絵画が飾られている。カソリックがヨーロッパを牛耳っていた時代に、ヴェネツィアは正にゴーイング・マイ・ウェイだった。そんなところも私がヴェネツィアを好む理由だ。
だからこそヴェネツィアはヨーロッパの中世の黒歴史に殆ど関わっていない。単なる侵略戦争の十字軍(大四次十字軍にヴェネツィアは参戦しているが、本来の聖戦であるエルサレムでは無く自国の利益を優先しコンスタンティノープルを攻めている。)単なる虐殺の歴史、魔女狩り。今では笑い話の地動説を宗教裁判で葬った科学との戦い…。そんなものとはヴェネツィアは無関係であったし、当時は発禁処分だった地動説の本を買う事も出来たそうだ。当時にあってヴェネチアは現代にも通ずる実利的、合理的な国だったと感じる。
そんなヴェネチアの最初の夕食はシーフード・パスタ。初日は軽く、明日は最後の晩餐だから豪華に行こうとするか!