モーリタニア旅行記9ベニシャブ砂丘へ

 アタールのホテルでゆったりと過ごし、我々はアタールを後にした。アタールから首都ヌアクショット迄はモーリタニアの大動脈の幹線でもあるから舗装された道を走る。

イメージ 1


 その幹線にはモーリタニアの数少ない貿易品となる鉱石を積んだ大型トラックが往き来している。すれ違う車さえ殆ど見かけなかった今までとは車窓の風景が少し違う。

イメージ 2


 一昨日からずっと走り続けたテーブル・マウンテンに囲まれた地帯もここら辺で終わりとなる。そんなテーブル・マウンテンに囲まれた一帯にモーリタニアでも珍しい水が豊富なオアシスがあり我々は其処を目指した。

イメージ 3


 途中テーブル・マウンテンの景色が良い場所で散策した。実はアタールで私はモーリタニアの民族衣装を買った。ガイドさんや地元の人に非常にウケが良いし部屋着にもピッタリだ。だが外着には裾が長過ぎて慣れないと引きずってしまう。だから写真では裾を肩に引っ掻けて写っているが、これは本来行儀の悪い着方なのだそうである。

イメージ 4


 そんなひとときの後、オアシスがあるテルジット村を訪れた。先にも述べたがモーリタニアは酷く乾燥しているので川も干上がってしまい地下水脈化してしまう事が殆どだ。地上に湧き出している理由は湧き出す量が豊富な事に加えて湧き出す水が温泉だからである。とは言っても日本人にとっては温すぎる所謂冷泉ではあるのだが。

イメージ 5


 そんなオアシスをテーブル・マウンテンの上から眺めたり、湧き水が滴る岩場に張られたテントで昼食を摂ったりして寛いだ。

イメージ 6


 その後はひたすら何も無い大地を走る。往きに給油で訪れた村で再び給油を行う。その際売店で炭酸ジュースを買った。何気無い買い物だが、思えばモーリタニアへ入って初の炭酸飲料だ。

イメージ 7


 その村から幹線道路を走ればもうヌアクショットもまもなくなのだが、我々は再び道無き道を走り、本日のキャンプ地ベニシャブ砂丘へと向かった。

イメージ 8


 早いものでツアーも大詰め、本格的な砂丘を見れるのも今日が最後だ。

イメージ 9


 ベニシャブ砂丘はこれまで見てきた砂丘程ダイナミックなものでは無いが、風紋の美しさではひけを取らない。

イメージ 10


 均等な砂丘が連なる砂丘チュニジアのクサール・ギレンを彷彿させた。

イメージ 11


 ツアー・メンバーとは遥か距離を置いて暮れ行く夕陽を眺めた。キャンプも明日が最後、明日は2018年の大晦日、そして今日も約束された様に美しい夕陽が沈む。

イメージ 12


4トラベルのページ
https://4travel.jp/travelogue/11486355

モーリタニア旅行記8アタールへ

 モン・エデルグの夜が明けた。勿論その足で砂丘に登る。夕焼けと共に朝焼けも砂丘を美しく彩ってくれる。西と東は反対だから、当然風紋に出来る影も反対に起きる。だから朝と夕では風紋も彩りが変わる。

イメージ 1


 ひとしきり砂丘を堪能して我々は西へと進路を進める。

イメージ 3


 先日訪れたサハラの目が今回の旅のターニングポイントだ。最早我々は折り返し地点を回って帰国の為に首都ヌアクショットを目指している。

イメージ 2


 昼過ぎにアタールに到着した。アタールはモーリタニアの内陸部の中心となる街だ。シンゲッティやウアダンが衰退すると、それらの街から移住する人、遊牧を捨てて移住した人々が加わりモーリタニアでも大きな都市となった。

イメージ 4

(砂漠で良く見かける草の花、でも実には毒がある。)
 我々もモーリタニア到着以来初めて街らしい街を訪れる事になった。昼食後、夕方のバザール見学まで、ツアーメンバーはホテルで長旅の疲れを癒す事となったが、私は一人でその間街を散策した。

イメージ 5


 質素な土壁の平屋が並ぶ街並み、天井付近の壁からニョキっと突き出した雨樋はトンブクトゥを散策した時を思い起こす。西アフリカ独特の街並みなのかもしれない。

イメージ 6


 街には子供達が遊ぶ姿、今夜のディナーにされてしまうかヒヤヒヤだろう山羊、そして今も現役の荷車を背負わされた驢馬、そんな姿に溢れている。そんな光景は世界共通の筈なのだが、この頃日本の路地裏ではあまり子供がはしゃぐ姿を見かけなくなった。

イメージ 7


 特段何の見所がある訳では無いが、やっぱり街のぶらり歩きは楽しい。夕刻ツアー・メンバーとバザールに出掛けた。モーリタニアで初めて見る人混みでもある。モーリタニアでは観光業が盛んでは無い為、観光用の店は殆ど皆無だ。旅人慣れしていなく、どう売って良いかも解らない部分もあり、こうした国にありがちなしつこい売り込みも見かけない。

イメージ 8


 旅人もそれほど興味を引く物は無いのだが、市場で売られたフランスパンは絶品だ。これは旧フランス領だった事に因む。ベトナムしかり旧フランス領で食べるフランスパンは日本のより美味しい。

イメージ 9


 バザールで喧騒を味わった後ホテルに戻る。今日は三日ぶりのホテルに泊まれる。筈なのだがアタールは街なので蚊が発生する可能性があるとして、テント型の蚊帳が支給された。

イメージ 10


 やっぱり今日もテント泊だね(笑)なんて冗談を言いながら、今日もまた美しい夕陽を眺めて一日が終わった。

イメージ 11


4トラベルのページ

https://4travel.jp/travelogue/11481504

モーリタニア旅行記7モン・エデルグへ

 サハラの目の夜が明けた。

イメージ 1


乾期の砂漠で朝焼けは約束された様なもの、今日も素晴らしい朝焼けを拝めた。

イメージ 2


 サハラの目のお別れに、嘗てサハラの目を研究した学者の名をつけられた木を見学した。ヨーロッパは嘗てアフリカを植民地化したので、現地には余りウケが良くないが、彼は地元と密着しモーリタニアを愛していたので、現地人からも愛されていたそうだ。

イメージ 3


 サハラの目を脱出した先は何処までも続く礫漠だった。ゴツゴツした礫の上を走るから走行距離が伸びないし尻も痛くなる。

イメージ 4


 やがて礫の丘を越えれば眼下にまるで並木道の様に並んだ木々が一直線に走っている。でもこれは自然に出来上がったもので人の手が加わったものでは無い。実は嘗てこの並木道は川だった。だが余りにもドライな環境に川は干上がりいつしか地下水脈となったのだ。そしてその地下水脈に沿って木々が並木道の様に生えたと言う訳だ。

イメージ 5


 そんな並木道を走ると、岩絵が残されている場所に出た。サハラ砂漠には幾つか古代人の岩絵が残された場所があるが、そのいずれにも多様性のある動物が描かれている。嘗て此処は砂漠では無く、緑深い地域だった事を岩絵が今に教えてくれる。

イメージ 6


 そんな並木道を西に向かいひた走った。途中から道の両側にテーブル・マウンテンが続く。アフリカにはテーブル・マウンテンが数多い。そんなテーブル・マウンテンを眺めながら昼食を摂った。例によって猛毒のサソリ、デス・ストーカーが現れたが、写真に納めたいツアー・メンバーに弄られて、我々は威嚇体勢を望んでいたのに 、デス・ストーカーは防御体勢になってしまう始末。サソリより我々が猛毒を持っているのかもしれない。

イメージ 7


 更にテーブル・マウンテンに囲まれた地形をひた走り、本日の宿泊地モン・エデルグに到着した。

イメージ 8


 モン・エデルグは非常に印象的なテーブル・マウンテンだが、その裾野に広がる砂丘もまた印象的なものだった。先ず風紋の彫りが深い、そして砂丘もダイナミック。そんな砂丘を日没まで存分に散策した。

イメージ 9


 風紋に夕陽が当たり独特の表情を醸し出す、夕焼けは砂漠散策のハイライトだ。散策が終わればスタッフがサハラの目で大好評だった焚き火を焚いてくれていた。本日は更にもと遊牧民のドライバーが砂パンを焼いてくれた。

イメージ 10


 砂パンとはサハラの伝統的なパンの焼き方で、砂漠をオーブン代わりに使ってパンを焼き上げる。普通少しは砂が混じってジャリジャリいうものだが、彼が焼いたパンは全くジャリジャリしなかった。

イメージ 11


夜も更けて用を足しにテントを出て木陰を探せば、なんとライトに浮かび上がったのは過酷な砂漠で生き抜いてきただろう動物の白骨死体。ちょっと神妙な気持ちになりつつ満点の星空を眺めて今日一日が終わった。

イメージ 12


4トラヴェルのページ
https://4travel.jp/travelogue/11479712#open_comment_box

モーリタニア旅行記6ウアダンから世界の中心へ

大変ご無沙汰してしまいました。
漸く戻れたと思ったら今度はYahoo!ブログが今年で閉鎖との事。
ビックリするやら何して良いやら。
引っ越し先を考えねばなりませんね。

では続きを書いていこうと思います。

 本日はウワダンを見学する。ウワダンのオーベルジュに宿泊しているから移動は簡単だ。ウワダンは丘の斜面に旧市街が建てられている。しかし砂漠化そして疫病や災害等の原因で住民が激減し、この地方の中心都市であるアタールに引っ越してしまった為、現在は廃村となっている。

イメージ 1


 だが数は多くないものの、丘の上に新市街を建設し、現在のウワダン市民は全て其処で暮らしている。旧市街はユネスコによって管理され、人が暮らす事は無い。

イメージ 2


 我々は丘の上の新市街から旧市街へと入った。その丁度境目に旧市街の新しいモスクがあり、シンゲッティ同様モーリタニア様式のミナレットが聳えている。シンゲッティのモスクより一際高い。

イメージ 3


 其処から斜面に沿って築かれたウワダンの街を坂を下りながら見学する。もう殆どの家の屋根は無い状態だが、返ってそれが過ぎ去った栄光の日々を良く物語る。坂の下には城壁が築かれ、嘗て守りが固かっただろう街の様子を今に伝える。その先では今でも夏目椰子が繁るオアシスがあり、それがウワダンを繁栄させた要因となる。

イメージ 4


 シンゲッティがモーリタニアの宗教と学問の中心なら、ウワダンはモーリタニアの経済の中心と言えるかもしれない。ウワダンからサハラ砂漠を東に向かえばタガーザと呼ばれる現在マリ領の塩田に突き当たる。この塩田で採れた塩とマリで採れる金を等価交換した貿易こそサハラ交易の花形だった。これはモロッコのアラブ人とマリのアフリカ人との交易だったが、塩田と近い立地に位置するウワダンは、この塩金貿易の通過点として多いに繁栄した。勿論シンゲッティと同じく、大航海時代が訪れると街は寂れ、そしてサハラ砂漠に埋もれていった。

イメージ 5


 坂を下れば時おり表札が張られた家屋がある。かつての賢者の家であり、彼等はハッジを達成した人だと言う。ハッジとはイスラームでマッカ(メッカ)の巡礼を達成する事を指す。当時、此処からマッカ迄の旅を達成する、つまり生きて帰ってくる事の困難さは現在の比では無い。

イメージ 7


 現代でさえモーリタニアへ行くのに躊躇して、団体ツアーに頼らざる得なかったと言うのに、駱駝くらいしか移動手段が無かった当時、此処からサハラ砂漠を越え、アラビア半島の奥地まで旅を続けた彼等を思えば、イスラーム教徒で無くとも旅人として敬意を表さずにはいられない。

イメージ 6


 ツアーメンバーは街の説明が終わると、砂漠の薔薇を採集しに砂漠へと向かったのだが、交易都市を存分に味わいたかった私は独りこの街に残って散策を続けた。坂の斜面に作られたこの街からは、こお街を潤したオアシスを一望出来る。そんなオアシスを眺めながら過ぎ去った栄光の日々を思った。そしてウワダン、シンゲッティと続いて、そしてサハラ交易の終着駅、トンブクトゥの方角を眺め、嘗て旅したトンブクトゥへの旅を振り返った。

イメージ 8

(素敵なオーベルジュ宿)
 ツアーメンバーとホテルで合流し、ウワダンを後にした。ゴツゴツとした荒野を抜けて目指すはゲルブ・アル・リッシャ。サハラ砂漠の目、若しくは地球の目と呼ばれる場所だ。もしアンドロイドのスマホをお持ちなら、Googleマップを開いて欲しい。そしたら航空写真モードにしてモーリタニア中央部を見て欲しい。確かに目が見えてくると思う。親切にくっきりと眉毛まである。ちょっと青いから地球は白人さんなのだろうか?本当に笑ってしまう程目なのである。

イメージ 9

イメージ 10


 良く見るとシンゲッティもウワダンもこの目の中にある。シンゲッティは涙腺あたりだろうか?そう、地球の目は地球の目だけあってとてつも無い大きさなのだ。だから地球の目に行ったとしても、目を見る事は出来ない。見たいとするなら宇宙に行かなくてはならない。それほどの大きさなのだ。(宇宙飛行士の間ではこの地球の目は有名な存在だったと言う。)

イメージ 11


 しかし見る事は出来なくとも感じる事は出来る。私も最初は感動出来るか半信半疑ながら其処へ向かった。先ず外輪山を越す。山自体はそれほど高くなく小高い丘程度だ。発見当初はその丸い形状から隕石の衝突説が唱えられたが、隕石による鉱石が全く発見されない事と、衝突したと家庭すると外輪山が低すぎる事から現在では隕石衝突説は否定されている。

イメージ 12


 今一番確定的に言われているのは火山噴火説と地形が環状に隆起した説がある。突飛も無い仮説で幻の都アトランティスだった説もある。これはアトランティスも環状の構造を持った都市だった事と、その半径がほぼ一致する事を理由としている。

イメージ 13


 我々の乗る4WDは幾つかの内輪山を越え遂に地球の目の中心となる山へと向かった。Googleマップで見た白人さんの様な不自然に青い目の青は、多分この地域にある櫟の色だ。近づくと黒いのだが、ある角度から眺めると緑色に見え、遠目に見れば芝でも生えているかの様にさえ見える。

イメージ 14


 そして地球の中心、Eyes of the World、すなわち世界の中心に我々は到着した。多分色々な観光地はあれど、今なら写真でその凄さを簡単に伝える事が出来る。でも時に写真では伝えきれない風景もある。此処はそんな数少ない例のひとつだと思う。

イメージ 15


 半径25キロに及ぶ大荒野の向こうに外輪山が周囲を囲んでいる。賢いツアーメンバーはビデオを駆使してクルクル回っていた。いやそれくらい凄い。これは幾ら広角写真でも一枚の写真には収めきれない。半径25キロ、つまり直径50キロの何も無い荒野の中心にポツンと立った山の上に我々はいるのだ。さぁ世界の中心で何を叫ぼう?

イメージ 16


 今宵はそんな中心から少し離れた荒野でキャンプ。また大好きなアフリカの木を眺めつつ一日が終わる。

4トラヴェルでも掲載しています。
(写真点数が多いです)
https://4travel.jp/travelogue/11450477
 

モーリタニア旅行記5シンゲッティ経由してウアダンまで

 ザルガ山から昇る朝陽を拝み、ザルガ山に立ち寄ってシンゲッティへと向かった。シンゲッティは私にとって、当初この旅の目的の最大でもある。

イメージ 1


 櫟漠やら土漠の途方も無く広大な大地を抜けると砂丘に囲まれた平坦な砂の道を4WDは走る。これはアラビア語でワジと呼ばれる渇れ川だ。以前、若しくは今日でも大雨が降れば此処が川となるのだが、通常は乾燥し過ぎていて干上がっている。アラビア半島からサハラまで、こうした乾燥した地域にはワジが多い。

イメージ 2


 そんなワジを抜けるとシンゲッティに到着した。このツアーの名称は「砂に埋もれゆく隊商都市を訪ねて」と言うものだが、正しくシンゲッティはサハラ砂漠に埋もれゆく街でもある。

イメージ 3


 いや埋もれては移動を続けてきた街でもあり、今あるシンゲッティよりちょっと離れた砂丘の上に遥か嘗てのシンゲッティのモスクのミナレットが再現されている。

イメージ 4


 そして現在のシンゲッティもまたサハラ砂漠に飲み込まれてしまう寸前なのである。しかしシンゲッティはモロッコからトンブクトゥへと続く交易路の中央に位置し、交易は勿論の事、イスラームの宗教、学問の中心として栄えてきた。此処周辺に暮らす敬虔なモスリムにとってマッカ(メッカ)へ巡礼する出発点となった他、其処へは行けない人々も、シンゲッティを複数回巡礼する事により、マッカへ巡礼する事と同じとなる、イスラーム第7の巡礼地として君臨した。

イメージ 5


 大航海時代が始まり、サハラ交易が衰えると共にシンゲッティの栄光の日々も去り、押し寄せるサハラ砂漠に飲み込まれる寸前ではあるものの、その栄光は現在のモーリタニア人にとっても誇りである事は変わり無く、現在進行中の油田開発の名称もシンゲッティ油田と名付けられている。

イメージ 6


 シンゲッティには幾つかの図書館が残されており、トンブクトゥにもあった様にイスラームの歴史的書籍が残されている。イスラームは中世のキリスト教とは違い、宗教と科学が共存していたので、ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えたばかりに宗教裁判で処刑される遥か以前から地動説を発見、天文学が発達していた。

イメージ 7

(図書館の館長さん)
 こうした貴重な書籍が、原始的に保管されている事を批判する人も多いが、私はこうした貴重な遺産はその故郷にあって、初めて意味を為すと思っている。例えば絵画でも作者はその絵画が何処に飾られるかを想定して描く事が多い。例えば教会ならその協会の飾られる位置の光線、飾られる位置の建築の構造を巧みに利用したものも数多い。

イメージ 8


 それらを絵画だけ抜き取って美術館に置いたとしても、その絵が産み出すポテンシャルを十分に発揮出来るとは思えない。また、先進国が遺産の保護の為、その遺産を現地から持ち出すと言うのも欺瞞に過ぎない。嘗てシルクロードに描かれた壁画の安全を守ると称してヨーロッパに持ち出された壁画の数々は、世界大戦により焼失してしまった。どうせ失われてしまうのなら、いっそ故郷で眠らせてあげた方がその遺産にとっても望ましい事だ。

イメージ 9


 そんな図書館の屋上からシンゲッティのモスクを眺めた。決して荘厳なモスクでは無い。いや世界に並び建つモスクの中では質素な部類に入るだろう。しかし此処は嘗て第七の巡礼地として栄えたモスク。モーリタニア様式と呼ばれ、此処周辺でしか見られないミナレットを持つ。そのミナレットの四つ角には嘗て駝鳥の卵が生命のシンボルとして飾られていたと言う。

イメージ 10


 暫し砂に埋もれたシンゲッティの旧市街を散策した。ちょっとだけの時間ではあったが、独りでシンゲッティの街を散策させて頂いた。本来は一泊でもして存分にシンゲッティを堪能したいところだが、そこはツアーの宿命だ。

イメージ 11

   
 途中シンゲッティ砂漠を越えた場所でランチを取った。辺りをキョロキョロしていると全身メタリックシルバーに輝く蟻を発見した。暑すぎる砂漠で熱を反射させる為だろうか?

イメージ 12


 シンゲッティを後にした我々が次に向かうのはウワダン。此処もまたサハラ砂漠を縦断する交易の街として栄えた街だ。そこまでの道程がまた凄かった。何処までも眺められる360度の大平原。そして風紋。こんな世界観滅多に見れない。こんな場所を走れるのはやはり4WDならでは、ツアーならではの事である。

イメージ 13


 そんな途方も無いを通り越し、ウワダンが見えてきた。旧市街は明日散策するので、今日は新市街に建つガイドさん宅を訪問し、オーベルジュ(ホテル)へと向かった。

イメージ 14


 ツアーの紹介ではかなり簡易なものと書かれていたが、立派なホテルでビックリした。やっぱりバックパッカーしている私と一般の旅行者では感覚に開きがあるだろうから、こう書かなくてはならないのだろうが、現地の状況を鑑みれば十分すぎる内容である。(シンゲッティにはこれ程のホテルが無いからウワダンまで強行軍だったのだろう。)

イメージ 15


 二日テント泊だったので暖かいシャワーが出るのも嬉しい。外に出ればまた印象的なアフリカの木が夕焼け空を飾ってくれた。

イメージ 16


4トラベルの対応ページ
https://4travel.jp/travelogue/11447858

モーリタニア旅行記その4ザルガ山へ

 翌朝早めに起きて朝食迄の時間に砂丘を登った。どうせ朝食の後にもう一度みんなで登るのだが幾ら団体ツアーでも独りきりになれる時間が必要だ。

イメージ 1


 陽の昇る前の砂丘は無彩色の世界でまるで何処か他の惑星に降り立ってしまったかの様な錯覚を覚える。しかし一旦陽が昇るとみるみるうちに砂丘が赤く染まり、まるで生き物の様に蠢く。そんな瞬間が私は好きだ。

イメージ 2


 朝食を終えみんなでもう一回り砂丘を回った。一瞬一瞬同じ光景でも色合いは変わる。夕陽と朝陽では砂丘の風紋に出来る影は反対方向となるので朝と夕では砂丘の表情は一変する。ひとしきり砂丘を楽しんだら再び4WDに乗り込んで移動を開始する。

イメージ 3


 荒涼とした大地を駆け抜けた先の見晴らしの良い場所でストップした。この場所はかつてパリ・ダカール・ラリーのコースだったと言う場所だ。そんな場所でランチを取ってパリダカのコースを疾走した。この場所をかつてランチャやセリカ、ギャランやインプレッサパジェロ等が凌ぎを削ったと思うと興奮した。パリダカはこの道を走り、ゴールであるセネガルの首都ダカールを目指したのだ。しかしそんなパリダカサハラ砂漠の治安悪化に伴い舞台を南米に移してしまった。

イメージ 4


 途中の村の井戸で生活用水を補給する。放牧民達もヤギに水を飲ませる為ヤギの大群を引き連れていた。モーリタニアはアラブ人と黒人の混血の人々が大半を占める。度合いで言えばアラブ系が強いベルベル人の系列に近い。我々には肌の色合いから黒人と判別が難しいが、顔立ちを見ると明らかにアラブ人に近く、ネイティブな黒人とは大分顔立ちが違う。

イメージ 5


 モーリタニアは周囲の国同様フランスの植民地であったが、ネイティブ・アフリカンの暮らすセネガルとは分離独立に成功しそれぞれの道を進めたので、マリの様な民族紛争の火種を抱えずに済めたのはアフリカに於いて幸せだったと言える。

イメージ 6


 砂漠地帯に暮らす人々は殆んどが放牧民であり、何ヵ所かに常設型テントを築き移動しながら暮らしている。途中そんな放牧民の暮らす村を訪れながら旅を続けた。モーリタニアは走れど走れど川が無い。かつてはあった時代もあった様だが、砂漠化が進み、暑過ぎて川は干上がってしまい地上には存在出来ない。

イメージ 7


 モーリタニアに存在するの水は殆んどが地下水脈と言う事になる。そんな地下水脈のある場所に木々が生え、そこがオアシスとなり、其処だけが人の暮らせる場所となる。そんな過酷な環境を遊牧民達は家畜を引き連れながら移動しながら暮らしている。

イメージ 8


 コースは一旦舗装の道に戻ったがそれも束の間再びダートを走り、本日の宿泊地ザルガ山の麓に到着した。印象的な形をした岩山ザルガ山も美しかったが、私の目を釘付けにしたのが、別段珍しくもない普通の木々。バオバブでもなければ、これと言って特別でも無いのだが、この過酷な大地に根を下ろすアフリカの木々はとても心に響くものがある。これ以降アフリカの木々を写す事が今回の旅のテーマのひとつにもなった。

イメージ 9


 アフリカと言えば、サハラ砂漠と言えば、暑いと言うイメージを持つかもしれないが、砂漠は乾燥しているので寒暖の差が激しい。年末と言うこの季節、夜は日本と同様に迄冷え込む。特に今夜はとても冷えた。

イメージ 10


4トラベルの対応ページ
https://4travel.jp/travelogue/11445746

モーリタニア旅行記その3アマトリッチ砂丘へ

 さて遂にモーリタニアの旅が始まった。首都ヌクアショットを出れば、いや首都の中でさえもう砂砂なのである。国土の大半がサハラ砂漠に属している珍しい国でもあるのだ。

イメージ 1


 エジプト、チュニジア、モロッコ。大抵の観光客がサハラ砂漠を体験しようと言うとこうした国になる。しかしそれらの国には地中海沿岸の街があり、そこは地中海性の温暖な気候で雨も降り、緑もある。だから昔から文明が生まれ都市が成長した。その他サハラ砂漠を有する国々も、そうしたサハラ砂漠以外の部分があり、そこに国の中心となる街がある。しかしモーリタニアにはそれがないのだ。ヌクアショットもごく最近首都として建造された街に過ぎない。

イメージ 2


 とは言っても現在では内陸の中心となる街までは舗装された。しかしツアーは途中の小さな街で給油を済ませると敢えてダートに突入する。お昼は途中の村のスペースを借りて頂いた。トイレ休憩は青空の下。女性が多いツアーだけれども、皆様こうしたツアーに参加される様なメンバーは慣れたものだ。

イメージ 3


 日本人は砂漠と言うと砂一色の世界を想像してしまうものだが、実は砂一面と言う砂砂漠は広大なサハラ砂漠でもほんの一部に過ぎない。他に土が中心となる土漠、岩がゴロゴロと広がる轢漠、そしてそれらの組み合わせだ。モーリタニアもコロコロとそれらが移り変わる。砂漠だけならタイヤのエアを抜く事で安定した走りが出来るけど、こう道路のコンディションが変わると運転の技術も相当求められると言うものだ。

イメージ 4


 移り変わる車窓のダイナミックな光景を楽しみながら、ちょっとした岩山で車を降りて眺めを楽しんだ。そんな矢先ガイドさんが何かを見つけた。私が恐れていたもの…。サソリだ。何故か女性メンバーは堂々としていたが、私はオッカナビックリ。いや見た目が怖い訳では無い。今晩こんな奴がいる場所でテントを張って寝るのが恐いのだ。

イメージ 5


 サソリはその見た目と逸話等から非常に恐れられている生き物だが、実は毒性が強いものは少ない。そして蛇等の様に大きくも無く、人を積極的に襲う事は無いので、ある意味スズメバチよりも安全な生き物なのだが、実は此処で見つけたサソリは例外で、別名デス・ストーカー。非常に俊敏かつ獰猛で刺されると死に至る事もあると言う。ヨーロッパにも同類のサソリが生息するが、砂漠で生息するタイプは餌が乏しく一撃必殺を求められるので毒性が強いのだと言う。これを知っていたら写真撮ってる場合じゃ無かった?

イメージ 6


 そんなサソリに怯えた場所からそう離れていない場所に、モーリタニアでも最大級の砂丘が広がるアマトリッチ砂丘に向かい、アオウジャと呼ばれる場所でテントを張る事になった。

イメージ 7


 柔らかい砂に足を取られながらひとしきり砂丘を楽しむ。ツアーメンバーが降りた後も独り砂丘に登り、暮れゆく砂丘を楽しんだ。静寂が辺りを包む。ずっと昔、モロッコを発った旅人達もこんな砂丘を越えて旅を続けていたに違いない。おっと下界を見れば中心のテントの脇のテーブルが賑やかになってきた。夕食を食べ損ねない様に下界に降りよう。

イメージ 8


 夕食も済みサソリが入らぬ様に靴をテントに仕舞い一寝入りした。夜半テントから出て用を足しに行く。満月とはいかなかったが月が煌々と砂の大地を照らしていた。

イメージ 9


また逢えたね!デザート・ムーンライト!モロッコで見た懐かしい光景が脳裏でダブった。何処かでジャッカルの遠吠えが聞こえた。

イメージ 10


4トラベルの対応記事
写真の数が多いです。
https://4travel.jp/travelogue/11444260