シルクロードを西へ!コーカサス編ナゴルノ・カラバフ2

 到着したナゴルノ・カラバフの首都ステパナケルトはとても昨年紛争を起こした国とは思えない、ごくありふれたアルメニアの地方都市と言う風情の街だった。人々も大勢大通りを歩き、先に訪れたゴリスより活気があった。但し旅人にとっては、これと言って別段訪れる様な場所も無い、本当にありふれた街なのだ。
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 と言う事で私はバスに乗り、往き来た道を引き返し、シューシと言う街へ向かった。首都ステパナケルトがナゴルノ地方のアルメニア人の中心であったのに対し、丘の上にあるシューシはナゴルノ地方に暮らすアゼルバイジャン人が暮らす街だった。紛争が激化し、アゼルバイジャン側が劣勢となるとアゼルバイジャン人はこの街に立て籠り最後の砦とした。故にアルメニア側の激しい攻撃に晒され今尚廃墟が多く残る街だと言う。
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 バスは30分程でシューシの街に到着した。バスを降りると何処と無く違和感を感じた。それなりに人はいる。しかし何処か空っ風が吹き抜ける様な寒さを覚える。バス停から程近い場所に、周囲の寂しい光景から浮いて見える真新しい大きな教会があった。
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(イスラーム王朝時代の城壁)
 紛争前は此処はイスラームが多いアゼルバイジャン人の暮らした街だ。明らかに紛争後に建てられた教会だろう。中にも入れたが、アルメニア教会のシンプルな内装も加わって、教会の内部も寒々しさを感じた。
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(残されたアラビア語)
 シューシに関しては事前にあまり情報を集められず、地図も無いので、どう歩いて良いか解らなかったので、当てもなく坂を下っていった。中心から反れると途端人影を感じなくなる。やがて古い荒れ果てた城壁に辿り着いた。遥か昔、ハーンが建てた城壁の残骸だ。イスラーム王朝が築いた城壁だから修復される事も無く荒れ果てたままの姿なのだろう。
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 更に歩みを進めると、以外な事にツーリスト・インフォメーションを見つけた。だが配布用の地図は無く、地図を写真に写させて貰う。しかしどうやら写真に写す迄も無く、私はこの街を訪問した目的をあちらこちらに見つける事となった。それはインフォメーションセンターのお姉さんが奨めてくれた景勝地では無く、紛争の傷跡だ。
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 それらは(見つける)等と言う行為を伴わなくとも、この街の至るところで見る事が出来たのだ。いや、この街は、廃墟に囲まれながら存在していると言った方が良さそうである。
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 あるアパートの窓はイスラームの象徴的なスライム型の木彫りがあった。嘗てアゼルバイジャン人が暮らしていた建物だろう。紛争後、民族浄化が行われた結果、現在ではこの街に一人もアゼルバイジャン人はいなくなった。民族浄化がどの様なものであるかは、あまりにも壮絶で人の道に外れたものであるから、此処には載せられない。戦争は愛国とか正義とか、綺麗な言葉で飾られるが、現場で実際行われているのは、虐殺、強姦、略奪…目を覆いたくなる汚ならしい行為の総集編である。
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 しかし、此処で疑問を抱く、何故彼等はこれ等の廃墟を撤去しないのだろうか?嘗てボスニアを訪れた時銃弾の跡が生々しく残る建物を見た。それは明らかに故意に残された建物だった。戦争の無惨さを忘れさせない為に。しかし此処に残された廃墟群からはそれほどのメッセージ性を見つけるのは困難だった。
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(カメラを握り締めていて、偶然廃墟を呆然と眺める自身の姿を写していた。)
 更に進むと廃墟と化したモスクがあった。中に入り写真を撮っていると、近くで工事をしていた作業員から「写真は遠慮して欲しい。」と言われた。彼等はモスクを管理している訳では無いから、写真を拒否する権限は無い筈だが、私は素直に引き下がった。自分達の民族が破壊した証拠を、外国人がパシャパシャと写真を写しているのは気持ちの良い光景では無いだろうから。
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 その先にはソビエト時代に作られたのだろうか?団地が廃墟と化していた。その前の通りを子供の三輪車が駆け抜けていく。廃墟に子供、余りにも場違いな光景にふと隣の団地を見上げて驚いた。
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 反対側の団地は廃墟と言えど逆の団地より保存状態が良かった。その幾つかの部屋は明らかに人の暮らしがあった。この街では洗濯物が、其処に人の暮らしがある事を主張しているかの様だった。異民族を追放して、彼等が住んでいた住居に暮らすとは、いったいどんな感触なのだろう?見上げ続けていると、ふと更に上の階から一人の男が私を見下ろしているのに気づいた。足早にそこから去った。
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 団地の脇にもうひとつのモスクのミナレットが建っているのを発見、私は吸い込まれる様にモスクへと向かった。
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 閉鎖されているとの情報もあったが、鉄の扉が解放されていた。私は恐る恐るその中に潜入、雑草を掻き分け、棘を掻い潜りモスクの中に入ると、荒れ果ててはいるが、嘗てはモスリム達が足繁く通っただろう礼拝堂があった。最早誰も訪れる事の無い崩壊寸前のメッカがある方角を示すミフラーブに向かい私は祈りを捧げた。
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 帰り道、モスクの裏側にもうひとつの入り口を発見した。建物の構造上それはミナレットへの入り口だった。廃墟だから電灯も無く、崩壊の危険性もあったが、私は漆黒の螺旋階段を手探りで登った。
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やがてミナレットの頂上に達し、そこから廃墟が折り重なるシューシの街を眺めた。
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周囲の廃墟だらけの光景を眺めれば、どす黒い感情が胃袋の奥からこみ上げてきた。
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エゴイズムとエゴイズムがぶつかり合って互いが譲り合えなかった結果がこのザマだ。
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為政者達は綺麗事が大好きだから、そのエゴイズムを愛国心と言う言葉に摩り替えるけど…。
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そんな使われ方するなら愛国心など糞食らえだ、虫酸が走る、反吐が出る。
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旅を続けながら何度こんな光景に出くわさなければならないのだろう。
これからも新しく廃墟は出来るのか?
だとしたら人類とはなんて愚かな生き物なのだろう?
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 シューシのある丘から降りれば再びステパナケルトに到着する。その郊外に「我らが丘」と称されるモニュメントが建っている。ナゴルノ・カラバフのシンボルでもあると言う。それは余りにもシュールな造形ではあるが、良くある国威高揚的なものでは無いだけ救いがある。そのモニュメントでも、街の中心でも、若者が集う光景は何ら他の国の街とは変わらない姿だった。軍事的なポスターにさえ目を向けなければ、ごくごく平和な地方都市、それがステパナケルトの光景だ。
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 唯一不自由と言えば外食の習慣が少ないのかレストランが異様に少ない事。食べると言えば女子なので、通りを歩く女子大生に突撃インタビューして教えて頂いた店へ向かった。第一のお薦めを外したのは、女子大生好みはお洒落だけど高価そうなレストランだったから。
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 一見普通に見える街とそこを歩く学生達。そんな風景を眺めながらふと思う。彼等が海外に出ようと思ったらどうなるのだろう?何故なら彼等の国は非承認国家、彼等のパスポートは殆どの国で国家と承認されていない国のパスポートなのだから…。非承認国家に生きるとはどういうものなのだろうか?聞きたかったけど聞けず終いになってしまった疑問になった。