シルクロードを西へ!コーカサス編アルメニアへ

 いざ、いや、漸くコーカサス三国最後の訪問国となるアルメニアを目指すべく寝台に乗り込んだ。出発は夜の10時16分、アルメニアの首都エレバンには朝7時半頃到着予定だ。とっても良い時間帯。だと言うのに丁度眠くなるだろう日付が変わるタイミングにジョージア出国とアルメニア入国の審査がある。ジョージアより少々厳めしい雰囲気ではあったが、危惧していたアゼルバイジャン入国の経緯(この意味は後で詳しく述べる。)も根掘り葉掘り聞かれる事も無く無事通過する事が出来た。
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(ジョージアでお世話になったジョージアSuica)
 アルメニアは世界で初めてキリスト教を国教に定めた国であり、国民もそれを誇りとしている。そんなアルメニアキリスト教は位置的にアルメニア正教と呼ばれる事もあるが、ジョージアを含め他の東方正教会とは異なるグループに分類されるべき宗派である。
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 先に紹介したローマ帝国によるキリスト教の教義を統一すべく開催されたニケア公会議。そこで決められた三位一体の教義にはカソリック東方正教アルメニア使途教会共に合意したのだが、続くカルケドン公会議に於いて示されたイエス・キリストの人性と神性の両性を持つと言う解釈に対してアルメニア使途教会は異論を持ち(単性説を採用した訳では無く解釈の違い。)カソリック東方正教会等メジャーなキリスト教勢力と袂を分ける事となる。
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 カソリック側からするとこの公会議で袂を分けたアルメニア使途教会は異端と言う事になるが、アルメニア使途教会に近い姿勢を撮ったグループには他にシリア正教会、エジプト正教会コプト教)、エチオピア正教会等があり、これらはヨーロッパよりキリスト教の発祥地であるイスラエルに近い立地に位置し、いキリスト教の原初に近い宗派であるとも言える。
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 こうしてキリスト教を国教に定め国作りを始めたアルメニアだったが、ジョージアアゼルバイジャン同様、周囲を列強の帝国に囲まれたアルメニアの歴史は次々と列強の支配下に入る苦難の歴史だった。その度にアルメニア人は故郷を離れ世界へと散り散りになっていった。その中でもオスマン・トルコ時代のアルメニア人虐殺は大きな悲劇としてアルメニア人の心の傷跡として今も尚深く残されている。
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(座席の下に荷物を収納出来る)
 虐殺と聞けばナチスによるユダヤ人虐殺が有名だが、ナチスによるユダヤ人虐殺はヒトラーの歪んだ思想による明らかにユダヤ人抹殺を意識した虐殺だった。一方オスマン・トルコは第一次大戦当時、西欧列強に領土を次々と割譲され、最早滅亡寸前の状態、そんな折りアルメニアは念願の独立の好機と捉えロシアと手を組んで独立運動を開始するのではないかと言う情報が飛び交った。オスマン帝国としては泣き面に蜂なところ。オスマン帝国はそんな危険がある領内のアルメニア人 を現在のシリアの砂漠地帯に強制移住させる事にした。その過程で多くのアルメニア人が命を失う事となったのだ。これが歴史的に言うアルメニア人大虐殺。この事件で多数のアルメニア人が命を失った事は現トルコ大統領も認めてはいるが、世界の似た様な虐殺問題でも最後まで論争となるのが、国としてそれを指示したのかどうか?この部分については両者の意見は未だ平行線を辿り、現在もトルコとアルメニアは国交を断ったままである。
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 その後アルメニアは束の間の独立を達成するが、ソビエト連邦が興るとその連邦に組み込まれ、ソビエト連邦が崩壊し、再び独立を叶える事が叶った。しかし独立するとソビエト連邦時から、領土配分の問題で解決を見なかったナゴルノ・カラバフ地方の帰属問題でアゼルバイジャンと紛争が激化し戦争となる。この問題は事実上アルメニアの実効支配と言う形では現在も解決を見る事無く、当然アゼルバイジャンアルメニアは国交を閉ざしたままである。(なのでアゼルバイジャン渡航記録があるとアルメニア入国時にトラブルとなる可能性がある。)
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 この様に内陸国でありながら南北の国境線で交わるトルコとアゼルバイジャン両国と緊張関係及び国交断絶状態にあるアルメニアは、経済的にはかなり苦しい位置に立たされている。この様な事からジョージアを挟んで接するロシアとの友好関係を深める事はアルメニアにとって必須とも言える環境にあり、コーカサス三国の他のアゼルバイジャンジョージアが反ロシアの体制を強める中、唯一親ロシアの体制の国家となっている。また、歴史的に故郷を離れなければならなかった多くのアルメニア人だが、この様な経緯から彼等の愛国心は強靭であり、外からの彼等の支援がアルメニアをバックアップしている。そして彼等の各国に於いてのロビー活動も相当の力があり、こうした経緯も活動もユダヤ人と似ているところがある。