インド旅行記後編8

 カジュラホー村を後にして私は車をチャーターして南西を目指した。途中名も知れぬ峠の茶屋で一服を入れた。私が茶屋に入るとインド人に囲まれた。観光地ならいざ知らず、此処はド田舎、突然現れた外国人が物珍しいのだろう。いや、もしかすると彼等にとって初めて出逢う外国人なのかもしれない。

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(アジャンター石窟寺院)
 こうした場合、インド人は余りデリカシーが無い。更にインド人は笑顔を美徳としない様で余り笑顔を作らない。で、こうした場合、皆無表情なのである。それはとてつもなく恐い。怒りの表情だったり捲し立てられたりしたら、此方もスゴスゴ退散すれば良いのだし、笑顔で話しかけられれば、笑顔で返せる。

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(アジャンター石窟寺院)
 しかし無表情で取り囲まれると、いったい彼等は何を考えているのか解らないから逆に身動きが取れなくなる。しかし10年前 、私は同様の体験をした事がある。だからたじろぐ事無く、持参していた煙草を差し出してみた。恐る恐る一人の男が煙草を受け取り、ふかし、そして多いに噎せた。残念ながら私の煙草は日本で一番きついタイプだ。

「何を!」

と思ったのか、もう一人の男が煙草をチェンジしまた噎せる。そして

「お前は何処から来たのか?そしてこの煙草はいったいなんなんだ?」

 と言うお馴染みの会話になる。向こうから煙草の返礼でチャイがもてなされた。彼等とのほんの一瞬の触れ合いを楽しむ。この場合、私が日本人と言う事は余り意味を為さない。何故なら彼等は日本と言う国など殆ど知識が無いのだから。宇宙人と一緒だ。たぶん彼等には日本人は恐ろしい程きつい煙草を吸う人々だとインプットされたに違いない。観光地にいると、どうしようも無い程粘着質なインド人だが!本来のインド人は実はシャイな人達なのかもしれない。

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(アジャンター石窟寺院)
 こうして長閑なインドの山奥の旅を楽しみながら、私はインドに残る二つの有名な石窟寺院遺跡を訪れた。 まず始めに訪れたのはアジャンター石窟寺院。仏教の壁画が残る事で有名な寺院だ。私はその後中国西域のシルクロードを旅した時、要所要所で仏教の石窟寺院を訪れ、西へ行けば行くほど壁画の仏が中国の顔からインドの顔へと変わっていく有り様を見る事になったが、此処はインド。仏教の故郷でもあるから、そこに描かれる仏は故郷の顔をしている。

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(アジャンター石窟寺院)
 もうひとつはエローラ石窟寺院。此方は仏教、ヒンズー教そしてヒンズー教から派生したジャイナ教と三つの宗教の寺院が並列して残されている珍しい遺跡だ。この遺跡は石を彫って造り上げた寺院に目を奪われる。

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(エローラ石窟寺院)
 誕生すると共に一時期は繁栄した仏教だったが、地域の特性として以前からあるバラモン=ヒンズー教に勝てなかった事、そして当時の王がヒンズー教を信仰する様になると、急速に力を失い、やがてインドでは力が及ばなくなり、その活動をヒマラヤ山脈を越えたチベットに移す事になる。

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(エローラ石窟寺院)
 しかし、インドでは仏教が衰えヒンズーがこの地の主流になった後も、仏教の遺跡は破壊されず、袂を分けたジャイナ教の遺跡も、ヒンズー教の寺院と共に残されている。この宗教感の寛大さは世界を眺めても珍しい事だと言える。現在でも中国で迫害を受けるチベット仏教が、インドのラダックに亡命政権を存続させていたり、アゼルバイジャン=イランで興った拜火教も現地のイスラーム化によって、第二の故郷としてインドで活動を行っている。

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(エローラ石窟寺院)
 しかしそんなインドでも激しくぶつかり合う宗教がある。ヒンズー教イスラームだ。どうしてそうなってしまったか?両者の反発はムガル帝国時代から、そして第二次世界大戦後のインド、パキスタン分離、そして4度に渡る戦争と恒常的に存在するものだが、これについては後に詳しく説明しようと思う。が、現地を旅していて、二つの宗派がお互いピリピリしているのを犇々と感じる事が多々あり、それは恒常的な反発とは違った特別な臭いを私は嗅ぎ取っていた。

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(エローラ石窟寺院)
 例えば雇ったガイドがモスクには絶対入ろうとしなかった。カジュラホー村に入った時、此方は何も言ってもいないのに、聞いてもいないのに、村人が「此処はヒンズーの村だ。イスラームはひとりもいない。」なんて喋りだした。いや言葉の節々にヘイトが滲み出ていた。

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(エローラ石窟寺院)
 時にこうした現象は旅する上で非常に厄介な事に繋がる事がある。何事も起きなければ良いが…。