インド旅行記後編9

 私がエローラ、アジャンター遺跡を巡るに当たって基点とした街。それは大抵ツアーであり個人旅行であり変わらない事だと思う。そして大抵の旅人は二つの遺跡を見学すると街を素通りしてしまう。しかし私は寧ろこの街に興味を抱いていた。その街の名はアウランガーバード、ピンと来た読者がいたら嬉しく思う。先に紹介したムガル帝国6代皇帝アウラングゼーブの名を冠した街だ。因みに(ア)ーバードと言う意味は、この地方のイスラーム用語で~の街と言う意味を指し、ハイダラーバード等ーバードと付く街はモスリムが多く暮らす街だ。

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 街を歩けば原色のサリーとは対照的な漆黒のアバヤを纏ったムスリマが多く歩いている。驚いた事にその多くがアラブ同様顔までベールで覆っている。これはウイグル等でも感じた事だが、少数派だったり、某かの迫害を受けている人々は、より保守的な民族衣装や宗教装束を纏う傾向が出る様だ。

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 そんなアウランガーバードの街の外れにひとつの霊廟が残されている。これはアウラングゼーブの息子が母即ちアウラングゼーブの妻の為に建てたものだ。

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 それは見ても解る通りタージ・マハルを模して建てられた。しかしその霊廟が 当時のムガル帝国の財政事情を表している。総大理石で築かれたタージ・マハルに比べ、ビビー・カ・マクバラーと呼ばれるこの霊廟は一部のみ大理石によるものの大部分は漆喰で白を表現するに留まっている。大きさもタージ・マハルに比べ一回りも二回りも小さい。今となっては偽タージ・マハルと揶揄さえされる。

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 タージ・マハルを建造し国の財政を傾けた父を幽閉し、次期皇帝の座に就いたアウラングゼーブは実力の持ち主で、彼の時代一時はムガル帝国史上最大の領土を持つに至る。しかし彼は3代アクバルが敷いた他宗教との融和路線を破り、自ら信じるイスラーム一辺倒の政治を行った。ムガル帝国はインドの地元から見れば異民族、異宗教、即ち少数派が興した帝国。であるから融和路線は、そんな帝国が国を運営していく上での絶対条件であったとも言えるのだ。

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 事実アウラングゼーブ以降次々とムガル帝国に反発する勢力が各地で反乱を起こし、帝国はそれを鎮圧する為に多額の軍事資金が必要となった。こうして結局アウラングゼーブは傾きかけた国の財政を建て直す事は出来なかった。

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 更に傾きかけた財政、多発する反乱はアウラングゼーブ存命中はなんとか凌いでいたものの、彼の死後津波の様に連鎖してムガル帝国を襲い、ムガル帝国は階段を転げ落ちる様に力を失っていく。タージ・マハルとビビー・カ・マクバラー 、二つの廟を眺めれば、栄枯盛衰を感じずににはいられない。しかしそれを築いた二人の皇帝の母(妻)を慕う心に大小は無い。

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 さてでは、アウラングゼーブ本人はいったい何処に眠っているのだろう?それはアウランガーバードからエローラ遺跡へと向かう道中のグルダーバードと呼ばれる小さな街に建つ聖人の霊廟の側に廟を築く事も無く青空の下に眠っている。

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 霊廟を築かない。それはアウラングゼーブ本人たっての希望だったと言われる。彼は良くも悪くも心底イスラームを信仰していた。インドではタージ・マハルを始め多くの立派な霊廟が築かれたが、本来イスラームはそうした大規模な霊廟を建てる習慣は無い。だからアウラングゼーブも本来のイスラームの習慣に乗っ取ったのかもしれない。

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 しかし私はそれだけでは無い気がする。霊廟建設に没頭し、国を傾けた父への反面教師な想いもあっただろう。また、父を殺してまで奪った皇帝の座。しかし自らを貫いた政治によって、結局国の財政を挽回する事が出来ず、更に追い詰められてしまっている現状に自責の念もあった事だろう。今日も聖人の霊廟の脇にひっそりと彼は眠りについている。