ガードレール
幼い頃初めて父に高尾山に連れていって貰った時の事。高尾山とは東京西にある標高600団?両さな山で、ハイキングコースが整備されていて都民の格好の憩いの場所となっており、子供や老人でも安心して登れる山だ。
しかし東京の下町に住み、それまで山等経験が無かった都会育ちの私には、最初の整備され尽くした1号コースは良かったとして、本来の山道の風情を残す3号コースに入ると、ちょっとおっかなく感じてきた。私はビビりながら父に聞いた。
「父ちゃん、この道危なくね?すぐ横に崖あるし足滑らせたら下まで落ちちゃうよ!ガードレールか何か作れば良いのに!」
父は笑いながらこう自分に応えた。
「本当にそう思うかい?じゃあもしそのガードレールが壊れていたらどうなるんだい?チビさっくん?」
父はいつも質問に質問で返すタイプで口下手だからか、いや、意図的に質問に深い意味を含める人間だった。私はブツブツ言いながら自問自答しながら、足元に細心の注意を払いつつ父の後を追った。
それ以来自問自答は続いた。きっと父は「自立した人間になれ!」と私に伝えたかったに違いない。ガードレールがあれば安全かもしれない。だけどそれに頼り過ぎ、もしそれが壊れていたとしたら、文句を言って人のせい、社会のせいには出来ても、痛い思いをした事実は変わらない。それにガードレールを作るのにどれだけ費用がかかるだろう。作るにあたって自然や環境も破壊されるだろう。だけど私自身が自立して、きっちり身の安全を確保して歩いていけば、ガードレールなんて必要が無い。
勿論山道とガードレールはその例えに過ぎない。私が成長した時、親に甘えようとしても親がその時この世にいるか解らない。社会に頼って迷惑かけて生きるのでは無く、自分自身の足でしっかり歩んでいける自分になれと言い聞かせたかったに違いない。
その後そんな事も解らずに悪さをしては親に世間に迷惑をかけ、私は家を出てしまったが・・・
旅を続け世界の貧しい国々の人々の生き方を知り、日本に戻って来てみれば、日本は今や至る所になんて過剰な程のガードレールが施されているのか!とビックリしてしまう。
サービスと言うのはある意味麻薬だ。人間は快楽や便利さには脆い動物だ。麻薬と同じで誰だって快適な暮らしを一度覚えてしまうと元に戻れない。最初はちょっとのうちが、やがてもっと!もっと!と言う事になる。今日の「ありがとう」は明日には「当たり前」に変わり、明後日にそれが行われないと「クレーム」に早変わりする。モンスタークレイマーは過剰なサービスが産み出した公害だ。成れの果ても麻薬と同様、麻薬が人を廃人にする様に、過剰なサービスの摂取も自分では何も出来ない、社会に頼りきりの廃人を作ってしまう。
政治家はそんな快適な暮らしが麻薬だって事を良く理解している。それは麻薬同様多大な金を産み出すからだ。
「もっと安全に!もっと快適に!もっと快適で安全なガードレールをつくってあげましょう!」
と市民の喜ぶフレーズを駆使して様々な事業を展開する。勿論その金の出所は我々の血税なのだが、安全や快適と言う言葉に目が眩んだ市民はそんな事などすぐ忘れてしまう。
「ちょっとでも自由が効かないと、あれもやって欲しい!これも必要だ!」
と。儲けたい政治家にとっては願ってもない要求だろう。お陰さまで日本は借金で首が回らない。ってのに、仕事が出来る人口は減る一方。そんなんで大丈夫なのか?日本!
家を出て以来家族とはずっと音信を絶って過ごしてきた。昨年長男である私の元に一通の行政上の書類が送られてきた。私は最早あの家族とは縁を切っていて関係が無い身だからと返送したが、その時チラ見した内容で、最早父がこの世にいない事を知った。
拝啓親父へ、貴方の残してくれた謎の意味、今ではとても大切な言葉だと感謝しています。
ガードレールに甘えるな!ガードレールに頼るな!迷惑をかける事無く、自分自身の足で歩んでいけ!
形こそ無いけれど、私にとって貴方のその言葉が最上のガードレールになりました。
空の上で大好きな酒を嫌となる程楽しんでいてください。