遥かなるトンブクトゥ最終回

 アフリカ大陸から漸くアジアへと戻ってきた。バンコク、私がトランジットとして何度も訪れた街、もう地図が無くとも街歩きには不安が無い。空港から街へと直結している鉄道の駅からブラブラと散策を続けながらチャオプラヤ川まで辿り着いた。最早王宮は見学時間を過ぎていた為、渡し船に乗り対岸のワットアルンへ赴いた。三島由紀夫の小説にも登場する寺院で、此処から眺めるバンコクの風景も格別なものだ。

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再び渡し船に乗り元の場所に戻る頃、バンコクに日没が訪れる。チャオプラヤ川越しに眺めるワットアルンが夕陽にそのシルエットを影絵の様に浮かび上がらせる。私はバンコクに来ると必ず訪れるチャオプラヤ川沿いの屋台街へと向かった。

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屋台街はいつも通り賑わってはいるものの、傍らでは排水ポンプが唸りをあげて溢れた水を排出していた。この旅の出発時、私をさんざんヒヤヒヤさせたバンコクの異常な増水、この年日本も東北大震災と言う未曾有の水害に祟られたが、此処バンコクも大きな被害を被った場所だ。そのバンコクに賑わいが戻り、人々の活気ある風景が眺められた事に私は安堵し日本に帰国した。

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今回の旅は私にとって特別な旅だった。普段なら一人旅故、独りで奮闘し独りで完結してしまう物語が、今回は旅で出逢った様々な現地の人々の良心に支えられ、苦楽を共に目的地を目指した様な旅だった。それ故に思い入れも深い旅だった。

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旅を終えて一ヶ月、年を越した12年1月17日。私が、いや、アマドゥが恐れていた事態が始まってしまった。マリ北部を過激派が襲撃を開始したのだ。私は一晩泣き明かした。頼まれていて送った使い古しのカメラは届いただろうか?未だ返事はなく消息は解らない。

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そして冒頭でも触れた様に三月にはクーデターが発生、その後フランス軍が余りにも遅い軍事介入を開始、そのツケは砂漠を挟んだアルジェリアで操業していた製油会社を過激派が襲撃する事件に繋がり、その事件で多くの日本人が巻き込まれる事となった。それまでこっちの話題等微塵にも興味を示さなかった日本のマスコミが殺到した。悪い意味でも世界は繋がっている事が証明された。

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その後紛争は小康状態が続くが、難民が大量に発生し普段でも衛生環境、医療環境が整わないマリは危険な状態に陥っている事は変わらない。そして昨年はそんなマリを含む西アフリカにエボラ出血熱さえ流行が直撃した。

私の旅を心から支え続けてくれたアマドゥをはじめとした親友達の危機に何も出来ずにいる自分を悔しく思うが、今自分が出来る事、それはアマドゥ達が誇りを持って紹介してきたマリに残る数々の遺産、マリと言う国の素晴らしさを、そして彼等が憎んだ紛争と言う事の愚かさを、私はこの小さなblogを通じて伝え続ける事だと思う。

マリの人々に感謝の気持ちと、マリの平和を願って