気球が舞って一日が始まる

?翌朝4時過ぎには起床して5時にホテルの鉄条を開け私の一日が始まった。昨日は勢いで走ったから何とかなったが、シェーサンドー迄の道程は約7キロ、それにアップダウンが微妙に繰り返されるので足に堪える。乾期のバガンは日中は暑いが夜になると上着が無いと寒くて震える。寒さに弱い私は完全防寒姿だ。

やっと辿り着くと夕陽程では無いにしても結構の混み具合だ。早起き過ぎる鶏が我々の心を煽る様に騒ぎ立てる。やがてその時は訪れ遺跡達がまるで山水画の様に浮かび上がる。太陽が昇ればその時を待っていたかの様に気球の群れが押し寄せる。

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ある人がネットでバガンの気球のチケットの取り方について質問していたにも関わらず
「○○○ー○で事故が起きたと言うのに気球ですか?自己責任でどうぞ!」
と掻き込みがあった。これは単なる茶々に過ぎないが、日本人は海外で事故が起きると口を揃えて皆同じ様な口を効く。


それは海外で過激派に捕まった若者に対し日本の政治家が流行らせた言葉だ。確かに彼の行動にも悪いところがあったのは事実だ。行くなと言う場所へ行ってまんまと捕まり、そのせいで一国が振り回される事は有ってはならない事だと思う。しかし政府にもそれに対して為すべき事はあった筈だ。

それどころか日本の政治家は自分達が責任を追求されるのを避ける為、被害者の人格を責め、自己責任と言う言葉で民衆を煽り個人攻撃するのは如何なものか。

この人質事件の結果、自発的には(自分で自分の責任を真っ当する)と言う意味の日本語、自己責任は、いつしか、他人に対しての責任逃れの決め台詞として多用される結果となった。

そんな自分もまた振り替えれば、現場で全く言うことを聞いてくれない傍若無人の一般市民についつい言ってしまう言葉でもある。

それ以上の行為は自己責任でお願いします。

それは自己責任になりますね。

等々。

ええ勿論責任逃れです。

反省です(笑)

話題は戻って、そもそも気球に乗るのは単なるレジャー。危険を指摘されている国ではないし、誰にも迷惑をかけている訳でもない。とやかく言われる筋合いはない。私は思う。自己責任、即ち自分の行為は自分が責任を持つと言う事は本来真っ当な大人なら当たり前な事であり、我々旅人も自己責任なんて当前の覚悟で旅に出ている。それより自分の責任は何も果たせない癖に、何か思う様にいかない事が起きるとすぐ政治が悪い、役所が悪いと自分達では解決しようとせず、すぐ社会のせいにするこの頃の日本人こそよっぽど自己責任って言葉学んだ方が良い。

こちら東南アジアの貧しい国々では、危ない事、不便な事、いっぱいあるけど、全部個人個人で注意し合って助け合って生活してる。ある意味自己責任なんて当たり前の話。ちょっとの事で文句を言ったらこっちの人に笑われてしまう。それも出来なくなった今の日本人はなんて弱体化してしまったのかと歎きたくなる。

そして毎年気球で亡くなる人が何人いるのか?日本では毎年1万人以上の人が交通事故で命を失う。危険だから止めろと言う理論が正しいのなら気球より車の運転を辞めさせる事が急務かと思う。ある日道歩いていて酔っ払い運転の車に轢かれる確率の方がよっぽど高いのだから。

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そんな書き込みとは裏腹に私が感じたのは気球の腕前だった。遺跡スレスレに飛んで見せるそのテクニックはかなり上手いと思う。それもあって人気も高ければ値段も高い。私は諦め去る得なかったが、是非チャレンジして頂きたいアトラクションだ。

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さて朝焼けも見てそれから宿に戻って朝食を摂り一休みするか悩んだが、7キロの道の往復が面倒臭い。時間も勿体ない。そう言えばバガンで一番均整が取れた寺院と名高いアーナンダー寺院なら地元の礼拝者も多いだろうから安くて美味しい朝食にありつける。先ずはアーナンダーに私は向かった。

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そしてやっぱりその屋台はすぐ見つかった。そして私は一言「モーヒンガー!」おばちゃんは「あいよ!」と多分言った筈だ。

注)パヤーと寺院 

パヤーとは英語でパゴダと言われるもの。仏舎利を納める場所でそのものが聖域。僧侶は住まない。サンスクリット語ストゥーパ、日本では五重塔、これを小さくしたものが卒塔婆

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(Bulethiパヤー)
それに対し寺院は本堂に仏像が安置され住職がいるところなのだが、バガンの遺跡には住職は住んでいない。日本のガイドブックには寺院と書かれているが、回廊のあるパヤーを意味するパトーの方が適切と思われる。(バガンのパトーの様式は、回廊の東西南北四辺にそれぞれ仏像が鎮座する事)

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(Pyathada寺院)