インド旅行記後編10

アウランガーバードから、十年前を考えたら、これはインドとは思えない様な心地よい小綺麗な列車に揺られムンバイに到着した。今ではインドで最大の都市となった貿易の街ムンバイ(旧名ボンベイ)そこは旧宗主国イギリスの影響を色濃く残した最もインドらしくない。秩序だった街並みの街だった。

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 歩いていると此処がヨーロッパの一か国と言われても間違えるかもしれない。そんな街中で一人の青年に話しかけられた。

「どうだいムンバイは?素晴らしいだろう?」

 彼の質問は、富みに急成長を続けるインドの最先端の街ボンベイを象徴するかの様に自信に満ちたものであったし、彼の笑顔は嫌みを微塵に感じさせないものだった。

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 しかし、その答に思わず詰まってしまう私がいた。十年前、デリーで私の世話をしようとしたばかりに駅の公安に引きづられていった少年、ヴァラナシで旅人から少しでもボッタクろうと凌ぎを削る少年達、ネパール・カトマンズで「僕は一生働いても、この国から出られやしない!」と訴えた少年…彼等が達者に成長していればきっと目の前の青年と同じ位の年頃の筈だ。そんなローカーストの彼等も、今この繁栄の恩恵を受け取れているのだろうか?そんな思い出の少年達の面影と、自信気に今のインドを語る青年の面影がダブってしまい、私は思わず返答に躊躇してしまったのだった。

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 ムンバイを後にして空港へと向かう。その途中私は胸がキリリと痛む光景に出くわしてしまった。実を言うと最初のデリーでも街の外れを歩いている時、そんな一角を発見し私は立ちくらみしそうになった。

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 それは、洗って尚汚ならしい疲れた洗濯物が、目を憚らずに干されている、道端に散乱する塵、昼間から何もする事の無い人々の虚ろな視線…そう、ローカーストの暮らすスラムだ。昔ならバックパッカーが宿を探す安宿は、大抵地価の低い場所に集中するから、バックパッカーはある意味スラムと共に存在した。

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 こうした事で私がカトマンズで体験した様に、もっと先に著名な「深夜特急」で有名な沢木さんが体験した様に、それはごく普通にインドで目にする、日常的な光景として我々の体験として記憶された。 しかしインドが発展し成長した結果地価が上がり、其処に彼等が住めなくなった、或いはインドの成長に相応しくない彼等を、旅人等の目から遠退ける為に、意図的に移住させられたのか?いずれにせよ旅人と彼等が切り離された今、さもすると気にしさえしなければ旅人がカーストによる差別問題に触れる機会は大きく減った。

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 我々はずっと為政者達が読み上げる、綺麗事で埋め尽くされたお伽噺に毒され続けているのかもしれない。

「我々は日々成長を遂げています。豊かで清潔で快適な社会になりました。」

 その下で貧しい人々は不可視化され忘れ去られていく。今や日本にも貧困の恐怖は深刻化しているとも言われるが、実際それを認識する事は少ない。臭いものには蓋をする。臭いものには蓋をして、為政者達は綺麗事で埋め尽くされたお伽噺を唱い続ける。虐げられ忘れ去られた人々の想いは何処へ向かっていくのだろう?

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 そして私が帰国して落ち着きを取り戻した頃、私は久しぶりにテレビをつけると驚くべき光景を目にする事になった。旅中で私が感じた嫌な予感は、帰国後に現実のものとなってしまった。ブラウン管の向こうでは、ムンバイの街が燃えていた。2008年11月26日、ムンバイに於いて大規模なテロが発生。それはテロと言うより市街戦の様な状況を醸し出していた。滞在時、非常に印象に残ったムンバイのシンボルとも言えるタージ・マハル・ホテルが炎上していた。