インド旅行記後編最終回

 インドに於けるイスラームとヒンズーの確執は大きく二つの要素がある。先ずはインド、パキスタンと二つの国に別れてしまった経緯だ。

 6代目アウラングゼーブの失策以降、ムガル帝国は縮小を重ね、遂には首都デリーしか実効支配出来ない状態に陥っていた。ヒンズー勢力からすればあと一歩、そんな時インドは外敵により植民地化されてしまう。つまり東インド会社を設立したイギリスに支配されてしまったのだ。

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 そして第二次世界大戦終了後、インド独立に際し、イギリスはヒンズー勢力に国を返還した。そうなるとイスラーム系の住民は行き場をうしなってしまう。そんな混乱の中、それを解消しようとイギリスはそれぞれの宗教に基づいて二つの国に分ける方針を打ち出したのだが、彼等が決めた国境線は東西に分けるものだった。

 しかし元々ムガル帝国はインドの北半分を所有していた事から、イスラーム系の住民は北部に多くヒンズー教徒は南部に多かった。そうした経緯からインドに所属してしまったイスラーム系住民が、イスラームの国パキスタンへと逃れる。逆にパキスタン側に取り残されたヒンズー系の住民がインドを目指す。そんな大混乱の中、お互いがお互いを殺し合う凄惨な事件が頻発し、それはやがて4回に及ぶインパ紛争へと繋がっていった。

 こうした二国間の憎悪と紛争の歴史が今尚根強く残っている。が、もうひとつ見逃されがちな要素がある。

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 インドが生んだ稀有なる人道家ガンジー。彼は尊敬される人物に違いは無い。しかし、彼が行ったローカーストに対する対策は、成功したとは言えない部分もある。彼はヒンズー教では人扱いされないローカーストの人々を、他宗教に改宗させる事によって、彼等を平等の世界を与えようと試みた。そしてその宗教としてイスラームが選ばれた。何故なら同じく宗教的に人を差別しない宗教だからだ。同じく仏教は、最早インドでは普及していなかった。

 しかし、幾ら改宗して宗教的に平等になったとは言え、その対象者が暮らすコミュニティーの中では、彼等は元ローカーストと言う見方までは変えられない、変わらない。いや、更に敵対しているイスラームに寝返った裏切り者とさえ見られてしまう。更に国までヒンズー優先の国だから、彼等の立場はレッテルだけ平等となったものの、以前より悪くなったと言って良い。

 こうしてインドのハイカーストの人々VSイスラームに改宗した元ローカーストと言う図式の反目がインドで根付き出している。私がピリピリを感じていたのは、国と国の図式より、こうした街中に潜んでいる反目であった。

 そして貧困は憎悪を生み、憎悪と言う炎があるところ、そこに油を注ごうとする者が必ず現れる。彼等はそんな貧困に喘ぎ、憎悪に心を蝕まれている人々を見逃さない。彼等はそんな人々に悪魔の様に囁くのだ。こうして起こったのが2008.11.26に起こったムンバイ同時多発テロの真相だと思う。

 私がインドを再訪した直後に起こった大規模テロ。ちょっと哀しい幕引きになってしまったが、私はひとつの建築を思い出す。それはあのエロチックなレリーフの寺院で有名なカジュラホー村の遺跡に建てられていたひとつの小さな寺院。その寺院には三つの尖塔が並んで建てられている。ひとつがヒンズー教の様式の尖塔、ひとつは仏教様式のもの、そしてもうひとつがイスラームの球根状のドームとなっている。何故そんなごった煮の様な建築が建てられたかと言えば、インドで重要な三つの宗教の平穏を望んで建てられたとの事。

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 そしてその通り宗教の融和を進めたアクバルは帝国の繁栄を築いた。この融和路線こそ、まるで宗教のごった煮の様なインドに於ける平和のお約束なのだと思う。そしてその世界の何処を見ても見つけられない程のごった煮感が、時代がいつに変わろうが旅人を引き付ける由縁なのだろう。

 もう残り少なくなってきた私の時間の中で、もう一回インドを訪れる事が出来るかどうか解らないが、もし行けるとするならばガンジス川に流されるべく、ヴァラナシの街を目指そうか?

インド旅行記 完

さて。明日から東欧の旅が始まります。今回はちょっと長く7月頭の帰国となります。旅中は旅に集中したい為、あっても無事報告的な更新となる筈です。宜しくお願いします。

では、行って参ります。