インド旅行記後編6
タージ・マハルとアグラー城の見学を終え、更にアグラーのジャマー・マスジッド(金曜モスクと訳し、金曜はイスラームにとって、聖なる日である事から街の中核となるモスクをそう名付ける事が多い。)を参拝した後、私は郊外の見所へと足を向けた。
其処まではリキシャーを駆って向かう。タージ・マハルがあるアグラーはインド屈指の観光地、リキシャーの鼻息も荒い。インドを旅する者の間で「アグラーの法則」と呼ばれる言葉がある。乗った時の言い値が走るに比例してドンドン釣り上がる事を指す。アグラーでリキシャーを乗りこなす為には、この屈強なインチキ運転手を操縦する技量も問われる。10年ぶりの闘いに腕が鳴った。
そんなこんなで辿り着いたスィカンドラーで私が楽しみにしていたのは三代目皇帝アクバルの霊廟だ。広大な整備された敷地に田の字に水路が引かれ、十字の中央に霊廟が聳える。ドームこそ抱かないものの、イスラーム的な幾何学要素をふんだんに取り入れた素晴らしい霊廟だった。
(アグラーのジャマー・マスジッド)
さて、此処でムガル帝国の歴史をおさらいしよう。
1)先ず中央アジアのウズベキスタンで生まれたバーブルが故郷でなし得なかった夢をインドで果たしムガル帝国を興す。
2)しかしアフガニスタンで興ったシェール・シャーの軍勢にデリーは陥落、二代皇帝フマユーンはペルシャに亡命、一旦ムガル帝国は滅びる。
3)そんなシェール・シャーも後継者選びに難航、その隙を付いてフマユーンがインドを奪還。
4)フマユーンの後を継いだアクバルはシェール・シャーの人質時代に学んだシャーの融和路線の政治を行い、ムガル帝国の繁栄の土台を磐石なものとする。
5)アクバルが築いたムガル帝国最盛期、4代ジャハーン・ギールは詩や絵画を嗜み、5代シャー・ジャハーンは建築王と呼ばれた。しかしタージ・マハル建造に国費が傾く程資金を投入し、更に自らの霊廟を建造しようとする寸前、三男のアウラングゼーブにアグラー城に幽閉されてしまう。
6)父を幽閉し6代目皇帝の座に就いたアウラングゼーブ。彼は父を幽閉するだけあって実力の持ち主だった。事実ムガル帝国の領土は彼の時代に最大となる。しかし反面、ガチンコなイスラーム主義者であった彼は三代目アクバルの敷いた融和路線を廃しイスラーム一辺倒の政治を開始した。
さてムガル帝国はこの先どうなってしまうのか?気になるところだが、旅の工程上先に幾つかの仏教、ヒンズー教の遺跡を紹介してから続きを話すとしよう。
(アクバル廟)
さて先ず向かうのは10年前にも訪れたカジュラホー村だ。10年前には若気の至りで乗り継ぎ時に日本人と喧嘩になったが、今回はそんな事もなく、前回欧州人が辟易して手をつけられなかった車内食も幾分こじゃれたものになっていた。
(アクバル廟)
私は外国人様に渡されたスプーンをバックパックにしまうと手をご飯を纏めてカレーに浸し口に放り込む。それを見ていた対面のインド人が目を丸くしている。
「手掴みでカレー食べる外国人初めて見ました。」
「ええ、だって此処はインドですから。」
私は微笑み返しながら、ラッシー(インド風ヨーグルト飲料)を飲み干すと、それが入れられていた土器を新聞紙でくるんでバックパックへとしまった。再びインド人が怪訝な顔をしている。
「この土器にはね、私の思い出が詰まっているのですよ。」
十年前のインドの夜汽車には、いや駅でも街中でも、チャイ屋さんが溢れていた。列車が駅に到着すると、一斉に車内に駆け込んできて我先にとチャイを売る。
「チャイ、チャイ、チャイチャーイ!」
それは一晩中続き、それが去った今でもインドを振り返る時時耳奥でチャイ、チャーイ!と響き続ける。
チャイはインドから中東まで嗜まれる所謂紅茶だ。中東ではストレートティーにこれでもかと言うほど砂糖を加えるのが一般的だが、インドではそれにミルクとシナモン等の香辛料が加わる。そしてそれが麻薬的に病み付きになる。
そして当時、この土器入りのチャイを飲んだ後は、お約束の儀式があった。飲み終わったら土器を地面に投げ捨て粉々に割るのだ。するとローカーストの子供達が何処ともなく現れてそれを掃除し、掃除代としてバクシーシをねだる。
年端のいかない子供が仕事?ちゃんとゴミ箱に捨てれば?そもそも再利用すれば?日本人なら次々と疑問符が沸いてきそうだが、それが当時のインドなのだ。日本の常識、良心は当てはまらない。
私が土器をゴミ箱に捨てれば、それだけローカーストの食い扶持は減ってしまう。(彼等はインドでは人と見なされないので就ける仕事が非常に限定される。)勿論土器を再利用すれば、それを作っているローカーストの仕事を奪ってしまう事になるだろう。
自分一人が正論をほざいても、この社会を変える力が無いのなら、現地の人々に迷惑をかけるだけなのだ。郷に入れば郷に従わざる得ない場合もある。
しかしその土器、本当可愛らしいのだ。十年隔てて現代的になった列車の車内にはローカーストの少年はいない。インド人男性がバックパックに思い出をしまう私を微笑ましそうに眺めていた。
其処まではリキシャーを駆って向かう。タージ・マハルがあるアグラーはインド屈指の観光地、リキシャーの鼻息も荒い。インドを旅する者の間で「アグラーの法則」と呼ばれる言葉がある。乗った時の言い値が走るに比例してドンドン釣り上がる事を指す。アグラーでリキシャーを乗りこなす為には、この屈強なインチキ運転手を操縦する技量も問われる。10年ぶりの闘いに腕が鳴った。
そんなこんなで辿り着いたスィカンドラーで私が楽しみにしていたのは三代目皇帝アクバルの霊廟だ。広大な整備された敷地に田の字に水路が引かれ、十字の中央に霊廟が聳える。ドームこそ抱かないものの、イスラーム的な幾何学要素をふんだんに取り入れた素晴らしい霊廟だった。
(アグラーのジャマー・マスジッド)
さて、此処でムガル帝国の歴史をおさらいしよう。
1)先ず中央アジアのウズベキスタンで生まれたバーブルが故郷でなし得なかった夢をインドで果たしムガル帝国を興す。
2)しかしアフガニスタンで興ったシェール・シャーの軍勢にデリーは陥落、二代皇帝フマユーンはペルシャに亡命、一旦ムガル帝国は滅びる。
3)そんなシェール・シャーも後継者選びに難航、その隙を付いてフマユーンがインドを奪還。
4)フマユーンの後を継いだアクバルはシェール・シャーの人質時代に学んだシャーの融和路線の政治を行い、ムガル帝国の繁栄の土台を磐石なものとする。
5)アクバルが築いたムガル帝国最盛期、4代ジャハーン・ギールは詩や絵画を嗜み、5代シャー・ジャハーンは建築王と呼ばれた。しかしタージ・マハル建造に国費が傾く程資金を投入し、更に自らの霊廟を建造しようとする寸前、三男のアウラングゼーブにアグラー城に幽閉されてしまう。
6)父を幽閉し6代目皇帝の座に就いたアウラングゼーブ。彼は父を幽閉するだけあって実力の持ち主だった。事実ムガル帝国の領土は彼の時代に最大となる。しかし反面、ガチンコなイスラーム主義者であった彼は三代目アクバルの敷いた融和路線を廃しイスラーム一辺倒の政治を開始した。
さてムガル帝国はこの先どうなってしまうのか?気になるところだが、旅の工程上先に幾つかの仏教、ヒンズー教の遺跡を紹介してから続きを話すとしよう。
(アクバル廟)
さて先ず向かうのは10年前にも訪れたカジュラホー村だ。10年前には若気の至りで乗り継ぎ時に日本人と喧嘩になったが、今回はそんな事もなく、前回欧州人が辟易して手をつけられなかった車内食も幾分こじゃれたものになっていた。
(アクバル廟)
私は外国人様に渡されたスプーンをバックパックにしまうと手をご飯を纏めてカレーに浸し口に放り込む。それを見ていた対面のインド人が目を丸くしている。
「手掴みでカレー食べる外国人初めて見ました。」
「ええ、だって此処はインドですから。」
私は微笑み返しながら、ラッシー(インド風ヨーグルト飲料)を飲み干すと、それが入れられていた土器を新聞紙でくるんでバックパックへとしまった。再びインド人が怪訝な顔をしている。
「この土器にはね、私の思い出が詰まっているのですよ。」
十年前のインドの夜汽車には、いや駅でも街中でも、チャイ屋さんが溢れていた。列車が駅に到着すると、一斉に車内に駆け込んできて我先にとチャイを売る。
「チャイ、チャイ、チャイチャーイ!」
それは一晩中続き、それが去った今でもインドを振り返る時時耳奥でチャイ、チャーイ!と響き続ける。
チャイはインドから中東まで嗜まれる所謂紅茶だ。中東ではストレートティーにこれでもかと言うほど砂糖を加えるのが一般的だが、インドではそれにミルクとシナモン等の香辛料が加わる。そしてそれが麻薬的に病み付きになる。
そして当時、この土器入りのチャイを飲んだ後は、お約束の儀式があった。飲み終わったら土器を地面に投げ捨て粉々に割るのだ。するとローカーストの子供達が何処ともなく現れてそれを掃除し、掃除代としてバクシーシをねだる。
年端のいかない子供が仕事?ちゃんとゴミ箱に捨てれば?そもそも再利用すれば?日本人なら次々と疑問符が沸いてきそうだが、それが当時のインドなのだ。日本の常識、良心は当てはまらない。
私が土器をゴミ箱に捨てれば、それだけローカーストの食い扶持は減ってしまう。(彼等はインドでは人と見なされないので就ける仕事が非常に限定される。)勿論土器を再利用すれば、それを作っているローカーストの仕事を奪ってしまう事になるだろう。
自分一人が正論をほざいても、この社会を変える力が無いのなら、現地の人々に迷惑をかけるだけなのだ。郷に入れば郷に従わざる得ない場合もある。
しかしその土器、本当可愛らしいのだ。十年隔てて現代的になった列車の車内にはローカーストの少年はいない。インド人男性がバックパックに思い出をしまう私を微笑ましそうに眺めていた。