インド旅行記後編3

 プラーナ・キラーとフマユーン廟。それらを抜かせばニューデリーにはそれほど目を奪われるものは無い。第一次世界大戦の犠牲者を弔ったインド門も、デザインはまんまパリの凱旋門。秩序だった街路はインドらしさに欠ける。私は足早にオールド・デリーを目指した。

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 オールド・デリーは5代皇帝シャー・ジャハーンが築いた赤砂岩の城壁に囲まれた城塞都市だ。皇帝は更に赤砂岩 に囲まれた王城の中に暮らす。その王城こそラール・キラーだ。内部には王の謁見施設やモスク、庭園等が残されており、時代が新しい分プラーナ・キラーより遥かに保存状態が良い。

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(ガンジーの墓。ガンジーヒンズー教の為遺体の大部分は聖なる川ガンジスに流されたが、一部が此処に納められている。)
 ムガル帝国が崩壊し、インドがイギリスの植民地となった時、この城はイギリス軍に接収されイギリスがこの城を使用した。現在でもインド軍が使用しており、その部分の観覧は出来ない。

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(ラール・キラー。ラホール門)
 ラール・キラーの門前には、こてまたシャー・ジャハーンが築いた巨大なモスク、ジャマー・モスクが聳える。赤砂岩と大理石の組み合わせと三連 のドームはムガル帝国 のイスラーム建築特有のものだ。

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(ラール・キラー内部)
 モスク界隈は露天がぎっしりと埋め尽くし、インドらしいカオスを形成していた。聖なるものと俗物は相反するものでは無く、表裏一体のものだと思うが、インドではそれが更に鮮明でテンションが高まる。

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(ジャマー・モスク)
 ラール・キラーの正門ラホール門からは、イスラームの街には珍しくチャンドニー・チョークと呼ばれる目抜通りが広がっている。昔も今も商店が並び商いの腕前を競いあっている。その中で異彩を放っている店があった。マクドナルドだ。10年前では有り得ない事だ。

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(モスクのミナレットからの展望)
 現在のインドの大多数であるヒンズー教徒は牛を食べないのでメニューはチキンが主流。私は目玉商品であるチキン・マハラジャ・マックを頂いた。その味は良くも悪くもマック。ただ中国も同様だったが、価格設定が現地の物価に対して非常に高く、日本人の感覚からすると割高感が半端無い。 (日本では庶民の味的価格設定のマックだが、国によってはチョイ背伸びの価格設定を施している様で、中国では若者カップルの憧れのデートスポットだとか…。)

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(チキン・マハラジャ・マック)
 そんなこんなでマックでは腹を満たせなかったので名も知れぬカレー屋に入る。カレーと言っても本場のカレーは日本のそれとは大きく異なる。インド北部ではイスラーム文化が育まれたので、アラブから伝わった主食ナンでカレーを食する。一方高温多湿で米の産地にも適するインド南部のヒンズー文化では日本と同様ご飯でカレーを食する。勿論デリーはインド北部であるから私はナンと共にカレーを楽しんだ。

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(チャンドリー・チョーク)
 口から火を吐きながらチャンドニー・チョークから路地裏へと足を進める。チャンドニー・チョークこそ真っ直ぐ伸びる大通りだが、裏通りは他のイスラームの街同様迷路の様だ。

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 現在では原付バイクが主流となったリキシャーも、此処では未だ自転車が引っ張るタイプが幅を効かせている。そんな光景を彷徨っていると、自分がふと十年前のインドの旅に逆戻りしてしまったかの様な錯覚を覚える。

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 しかしそんな光景の中に、明らかに場違いなものを発見した。それは地下鉄の入り口だった。急成長を続けるアジア諸国の十年は一昔だ。聞けば08年当時デリーから空港への直通鉄道が工事中だとの事。更に十年隔てた現在では、空港からデリー市街迄ボッタクリタクシーと戦いながら辿り着かねばならないなんて、遠い昔話となっているのかもしれない。

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 しかしながら自転車が引っ張るリキシャーを掻き分けながら、その下を最新式の地下鉄が走る光景は何処かシュールなモノがある。ホームに辿り着けば、やはり其処はインド。日本の通勤、いやそれ以上の人のカオスに押し潰されそうになりながらホテルへと戻ったのであった