インド旅行記後編2

 二度目のインドはしっかりと自分のテーマに沿ったものを限られた日程の中で確実に見ておきたかった娘ともあり、移動は前もって予約を住ませ、一部は車をチャーターして臨む事となった。

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(デリーのヒンズー寺院ラクシュミーナーラー寺院)
 
 デリーは前回殆ど観光せずに移動してしまった為、リベンジでもあり、楽しみにしていた。デリーは欧米諸国が植民支配していた殆どの街同様に、以前から栄えていた旧市街(オールド・デリー)と支配した国が整備した新市街(ニューデリー)に別れる。

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(大統領官邸)
  
 当然歴史的見所は旧市街に集中するのだが、新市街の外れに、ムガル帝国の歴史にとって重要な見所が残っている。ムガル帝国二代目の王フマユーンが整備した城塞プラーナ・キラーと彼の廟だ。

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(プラーナ・キラー城門)
 
 ムガル帝国は初代バーブルがこの地を支配したとはいえ不安定な状態が続いていた。そして二代フマユーンの時代、アフガニスタンに生まれたシェール・シャーの軍勢にデリーを占領されてしまう。フマユーンはペルシャに亡命、息子アクバルは人質に取られ、こうして一旦ムガル帝国は敢えなく滅びた。

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(プラーナ・キラーのモスク)

 しかし一旦はこの地を征服したシェール・シャーだったが、後継者に恵まれずフマユーンのリベンジの前に破れ、フマユーンはムガル帝国の再興に成功したのである。プラーナ・キラーはそんなそんなフマユーンが築いた城塞跡。デリーには現在の旧市街を形成している5代シャー・ジャハーンが築いたラール・キラーと呼ばれる城塞があるので、それに対し古い城塞と言う意味でプラーナ・キラーと呼ばれている。

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(フマユーン廟)

 一方フマユーン廟は息子である3代アクバルによって建造された廟でタージ・マハールの原型となったと言われるその建築は、タージ・マハール程のインパクトには欠けるが、均整の取れたシンメトリーの姿はタージ・マハールに勝るとも劣らず美しい。また赤砂岩と大理石のコントラストも見事だ。(この赤砂岩と大理石の組合せはムガル建築の特徴でもある。)

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(フマユーン廟)
 プラーナ・キラーは時代が古いだけあって保存状態はラール・キラーに劣るが、モスク等幾つかの施設が現在に残り、広い城内は芝生が植えられインド人観光客の憩いの場となっていた。そんな園内でちょい悪風風のインド人の若者と仲良くなった。

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(プラーナ・キラーで出会った若者達)
 しばし彼等と仲良く過ごした後、ふと彼等にチャイを飲まないかと誘われた。警戒していた訳では無いのだが咄嗟に私はその誘いを断った。すると彼は言ったのである。

「賢い判断だね。此処インドでは見ず知らずの人に飲み物や食べ物薦められても断った方が良い。睡眠薬強盗がゴロゴロいるからね。」

 彼は本当に親切心でそう口にしたのか、手の内を見破られて誤魔化す為にそう口にしたのか、私は未だそれを見破れずにいる。