インド旅行記前編10

 私を乗せたプロペラ機は後ろ髪を引くかの様にカトマンズ盆地を旋回しながら上昇し、この旅の最終目的地コルカタへと向けて飛び立った。

 人、人、人、行き倒れ、行き倒れ、行き倒れ…。コルカタの安宿街サダル・ストリート界隈は酷い有り様で、インドに舞い戻った事を痛感した。痩せ細った老人がリキシャーを引きながら苦しそうに客を運んでいく。その光景はまるで漫画北斗の拳そのものだった。

 道端にはまるで漫画中で「籾殻を!」と明日に命を託した老人の様な出で立ちの物乞いが「バクシーシ!」と我々に向けて叫びをあげる。いや実際は漫画以上の過酷なルールがそこにあった。

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 カーストの違う者同士の喧嘩があった。それは喧嘩では無く一方的なものだった。フルボッコにされ殺されかけたローカースト。奴等は拳王侵攻隊か…。見るに見かねて止めにかかった私達を

「旅人風情が観光地でも行ってろ!」

 と捨て台詞を残しハイカーストは去っていった。我々は死に損ないのローカーストを取り合えず医療所へ連れていった。そこで我々が聞いた言葉。

「彼は人間では無いから助けられない。」 

 そこにカースト制度の闇を見た。でもその様な場所だからこそ神様は天使をこの街に降臨させたのかもしれない。彼女の名はマザー・テレサ。彼女はカソリックだった。しかし彼女はカソリック本部から妨害を受けてまで自らの意思を貫いた。

 それは弱き立場の人々を救済する事。それは宗教の垣根を越えて、死に逝く全ての人々に…。イスラーム教徒にはコーランを唱え、ヒンズー教徒にはガンジス川の水を与え…。しかし、それが宗教の枠組みを越えているとして彼女は上層部から妨害を受けたのだ。だが、その活動はカソリックの上層部の誰よりもイエスに近い行動だったと私は信じる。何故ならイエスは形骸化したユダヤ教の迫害を受けながらも、十字架に架けられるその前日でさえ、エルサレム城外のケデロンの谷にて貧しき人々を救済していたのだから。

 さてカースト制度と言えば遠くインドと言う国の我々とはほど遠い国の出来事だと思うかもしれない。だけど、自由民主主義と言う幻想の下に暮らす我々だって、それは無関係とは思えない状況に昨今はある。

 この国の人々の生活保護者に向ける視線は冷ややかだ。時に犯罪者以下ですらある。生活保護までいかずとも、この国の正社員の数は減り続け格差は徐々に広がっている。誰だって貧しくなろうとして貧しくなる訳では無い。しかし一般人ならともかく政治家ですら彼等を自己責任と言う無責任な態度で見捨てようとしている。