シルクロードを西へ!コーカサス編ジョージア・閑話休題1
さて、ムツヘタ・スヴェティツホヴェリ大聖堂を紹介する前に、簡単にジョージア人が信仰する正教会について説明したいと思う。日本ではキリスト教と言えばカソリックとプロテスタントが有名だが正教会はそれほど知名度が無い。東京ならお茶の水のニコライ堂、北海道なら函館のハリストス教会が正教会の教会として有名だ。
(函館ハリストス教会 wiki引用)
嘗てローマ帝国は東西の二つの帝国に分裂した。西のローマを首都とする西ローマ帝国とコンスタンティノープル(現イスタンブール)を首都とするビザンティン帝国(東ローマ帝国)だ。当然キリスト教も二つの都市に拠点を持つ事となるが、この距離感が時代を経るに連れ、両者の距離も隔てていく事になる。
カソリックと正教会の大きな違いのひとつに組織の在り方がある。ビザンティン帝国が長続きした事に比べ、西ローマ帝国はゲルマン民族の移動に伴いあっけなく滅びてしまう。カソリックはその時、国と言う庇護して貰う存在を失ったのである。だから彼等は独立した組織として生き抜かねばならなかった。故の教皇(現在の法皇)を頂点としたピラミッド型の中央集権的組織を築き、西ローマ帝国に変わってローマを納めたゲルマン民族にその正当性を与える代わりに積極的に政治にも介入していく。こうしてカソリックと教皇の力は途方もなく大きなものとなったが、それはやがて宗教の腐敗にも繋がり、その腐敗に抗うキリスト教信者によりプロテスタントが生まれる事になる。
(東京神田ニコライ堂)
一方長く歴史に名を残したビザンティン帝国ではキリスト教は国と共に成長を続けた。しかしやがてビザンティン帝国も滅ぶと、今度は彼等も庇護者を失う事となる。正教会ではその後カソリックの様な中央集権的な組織を作る事無く、ロシア正教、ギリシャ正教、そしてジョージア正教と国毎に総主教座を定め運営していく事となる。各国の主教座に上下関係は無く、カソリックの様に全体のトップと言う考え方は無い。
カソリックと正教会の間に教義的には大きく異なる部分は無い。細かな部分では勿論数多く存在するが、やがて一番の大きな障壁として現れたのが偶像崇拝を巡る解釈の違いだ。正教会はビザンティン帝国を主体に広まった宗教、ローマから見れば東に位置するので東方正教会とも呼ばれる事があるが、其処は更に東に進めば当時の新興宗教でもあるイスラームの世界だった。イスラームはユダヤ教、キリスト教と同じ神を崇拝する宗教でもある。彼等はそのイスラーム教からの影響も強く受けていた。
例えば建築様式。カソリックの教会の鐘楼はファザード(建築の前面)に建築に付随している事が多いが、ジョージア等の教会はモスクのミナレットの様に建物から独立して建っている。これもイスラーム建築からの影響と言われる。
(先述したカズベキの教会も聖堂と鐘楼は独立して建てられている。)
そして何よりユダヤ教やイスラーム教は古くからの戒律を忠実に守り偶像崇拝を忌避していた。これに影響された正教会も偶像崇拝を禁止する方向に向かったのだ。しかし西欧は元々偶像崇拝の信仰が残る地方であり、ゲルマン民族等への布教活動に偶像が必需でもあったカソリックにとっては偶像崇拝の禁止はとても受け入れる事が出来ない方針でもあった。この事で決定的に両者の考え方は分離してしまい、やがて互いが互いを破門にすると言う形で両者は袂を分けてしまう。現在では和解は成立している様だが、両者は一緒になる事は無く現在に至っている。
(システィーナ礼拝堂の最期の審判 引用)
その後、正教会は部分的に偶像を描く事は承認したものの、それは全面的なものでは無く、イエス等を描くにあたっても昔ながらの平面的な図法に限定されている。ルネッサンスを迎え飛躍的に向上した描画方で躍動的に描かれるカソリックの宗教がとは打って変わって、正教会の宗教画イコンは素朴なまでの絵画が多いのはこの事に由来する。
(正教会のイコン。)
また、カソリックは常識的な範疇なら教会に入る際にドレスコードは存在しないが正教会には存在する。ジョージアでは女性は髪をスカーフで覆う事、更にパンツは許されずスカートで無ければならないので、パンツ姿の人は腰布を借りて巻いて参拝する事になる。また聖職者に至っては、時期によって食物制限もある。ここら辺もイスラームやユダヤに近い部分を感じる。