シルクロードを西へ!コーカサス編ジョージア・カズベキ
漸くツアーバスがカズベキ村へ到着した。バスを降り、風景を見上げた瞬間私は思わず歓声を上げてしまった。カズベキ山が見える!先人の旅行記でも見れず終いの旅人が多かったカズベキ山、山は朝早くに見てこそナンボなところもあるから、これまでツアーメンバーの集合が悪く、ズルズルと行程が延びる展開に苛々していた。見れなかったらツアーを離脱して、此処に一泊し朝再挑戦するつもりでさえいた。しかし午後も大分深まった今でさえ鮮明に見えるのだ。
ツアーはこれから4WDに分乗してカズベキ山の手前の山の頂上に建つツミンダ・サメバ教会を目指す。本当は自力で登りたいところだが、このツアー客と一緒に行ったらバラバラになったきり遭難してしまいかねない。いや自分独りでも気力はあっても体力がウシュグリとメスティアのトレッキングで使い果たしてしまっているので最早足りない。
まるで統一されたかの様に三菱デリカばかりの4WDに乗って教会への道を登る。4WDに乗り換えた訳は山道に入ってすぐに解った。非常にコンディションの悪いダート道なのだ。カズベキはジョージアでも有数の観光地、数多くの旅人が来訪するから車通りも多い。だからダートの道はどんどん轍が深くなる。しかも道幅が狭いのでデリカの往来で大渋滞を起こす。
これだけ観光客が来てお金も落ちているだろうに何故道を整備しないのか?もし道を整備してしまったら、トビリシからダイレクトに観光客が教会に行ってしまい、デリカのドライバーは仕事を失ってしまう。そんな地元のドライバーの仕事を確保する為敢えて整備していないのでは無いかと思う。勿論整備して観光バスが大挙して押し寄せれば環境破壊も深刻になるとは思うが。
教会に到着した。教会も素晴らしいが、先ずは360度広がる大パノラマに圧倒される。此処から見下ろすカズベキ村も素晴らしいが、背後に聳えるカズベキ山もまた素晴らしい。この山はギリシャ神話の舞台としても有名な山だ。プロメテウスは人間に火を教えたばっかりにゼウスの怒りを買って岩山に磔にされ鷲に肝臓を食べられる日々を送ると言う拷問を受ける。そのプロメテウスが磔にされた岩山こそがカズベキ山だと言う。
そのカズベキ山を見上げながらふと思う。プロメテウスが自分の身を犠牲にしてまで人間に与えた炎。それは確実に人類に文明を与える一方、紛争の焔は未だ途切れる事は無い。また原子力の火もまたプロメテウスの火に良く例えられる。果たしてプロメテウスが人類に火を与えたのは正しかった事なのか?はたまたゼウスの言い分が正しかったのか?
勿論教会自体も小さいながら由緒正しき教会だ。その名、ツミンダ・サメバとは至聖三者を意味する。至聖三者とはカソリックで言うところの三位一体と同義語でキリスト教の重要教義であり、その名を冠したこの教会はジョージアでも最も重要な教会のひとつと言える。実際ジョージアが危機に陥った時や、ソビエト時代の宗教弾圧時代に、ジョージア各地の聖遺産が、この教会に運ばれ、シェルターの役割を果たしたと言う。今日でも教会内はジョージアでは珍しく写真撮影は厳禁となっている事からも、大切にされている教会である事が伺える。
また、この教会は様々な著名人からも愛された教会としても有名で、ロシアの詩人プーシキンが、「日の光に照らされ、まるで雲に支えられて空中に浮かんでいるように見えた。」と彼の詩に残している。天国に一番近い教会と呼ばれる事もある。
至聖三者、三位一体…これはキリスト教の教義の根本であると同時に政治家も時にこの文言を引用するが、非信者にとっては難解な文言でもある。ぶっちゃけて言えば、蘭ちゃん、美樹ちゃん、スーちゃんでキャンディーズが成立している事と同じだ。(例えが異常に古く克つ俗っぽくてごめんなさい。)蘭ちゃん、美樹ちゃん、誰が欠けてもキャンディーズでは無いのと同じ事、即ち父なる神、子なる神、そして聖霊の三者が纏まってひとつの神を形作っていると言う考え方だ。
(カズベキでも牛の放牧が盛んだ。)
ではキリスト教に於いてひとつの神を形作る三つの存在を見ていこう。父なる神とはユダヤ教、イスラーム共通の神である絶対にして唯一の神であり人類の言葉等理解しない孤高の存在だ。本来一神教はこの神のみの筈である。しかしこの神は人類の言葉を理解しないので、人類は神の言葉が理解出来ない。そこで神の言葉を民衆に伝える預言者の登場となる。ユダヤ教ならアブラハムやモーゼ、イスラームならムハンマドだ。イスラームでは毎度の礼拝に於いて「ムハンマドは預言者である。」と唱えムハンマドが人間に過ぎない事を厳命しているが、キリスト教では預言者であるイエスにも神性を付与し子なる神であるとする。更に聖書に書き表された聖霊も加え三つの神格がひとつの神を構成していると考えられている。
(そんな牛さんを背景にカズベキ峰を写していたら)
ではいったいどうしてこんな難解な解釈が必要となったのか?ユダヤ教とイスラームは、こうした絶対唯一の神が神の声を聞く事が出来る預言者を通じて神と契約を結ぶと言うスタイルが信仰の常識である地域をベースに信仰されていった宗教である。それに対しキリスト教は故郷を離れ、ヨーロッパを舞台に布教を開始する事となった。ヨーロッパは目に見える偶像を信仰する人々が暮らす地域であり、多神教の国土だった。その様な場所では神は絶対唯一の存在で目には見えないと言われても、民衆はチンプンカンプンだろうし、キリスト教と言う名前なのに、キリストは神では無く人間に過ぎないと言うのも理解し難かっただろう。(キリスト教がローマ帝国の国教に認定される以前、キリスト教がローマ帝国への信仰を拒否した為、ローマ帝国はキリスト教を迫害した経緯もある。)
(なんと牛さん突撃!)
こうした環境の中でキリスト教もまた変容せざる得なかった。キリストにも神性を付与し、聖霊も加える事により現地の人々にキリスト教を理解し易く設定したのでは無いか?しかしそれは一方キリスト教の根幹でもある一神教を逸脱してしまうとも言える。こうした中、ローマ帝国の国教に認定されたキリスト教は国の指針により教義の統一をニケア公会議に於いて話し合われる事となった。この会議にて至聖三者、三位一体と言う見解が確率されていく事となるのだが、私的感覚ではキリスト教がヨーロッパと言う故郷とは異なる信仰の価値観を有する土壌で認知されるべく、克つ一神教である事を保持する為に辻褄を合わせるべく苦難の末編み出された解釈方こそ三位一体の教義だと思っている。
(カズベキ村を見渡す)