シルクロードを西へ!ウズベキスタン編タシュケント1

 往きは鉄道、そして車で砂漠を越えて時間をかけて移動した道程も、帰りはプロペラ機であっという間にタシュケントに戻った。旅を始める迄帰りの便のフライトスケジュールが未定だった為、空港からタシュケントの市街迄のアクセスは自力で向かう事を覚悟していたので、空港を降り立つと一目散に出口を目指したが、そんな私の腕を掴む者がいる。振り返ればなんと、往きにホテル迄の送迎を勤めてくれた現地旅行者のハイテンションの男、グロムだった。

イメージ 4

(クカルダシュ・マドラサ
 グロムの出迎えを受けてタシュケントの起点となる場所、クカルダシュ・マドラサまで送って貰い、そこでピックアップの約束をした。聞けば彼の母校は此処クカルダシュ・マドラサだと言う。

イメージ 3

(ジャミー・モスク)
 ソビエト占領時代、宗教を否定する共産主義は、ブハラのミル・アラブ・マドラサを抜かしてウズベキスタンの全てのマドラサの活動を停止させた。クカルダシュ・マドラサソ連時代は倉庫として利用されていたと言う。しかしウズベキスタンの独立が叶い、再びイスラームの信仰が始まり現在ではイスラーム帽を被った学生達が生き生きとマドラサに吸い込まれていく。

イメージ 2

(ジュマ・モスク)
 マドラサの近くにあるジャミー・モスクには礼拝の時間なのか次々と信者がモスクに吸い込まれていく。民族が、民族独自の文化を守り、民族独自の信仰を守る事は民族の当然の権利だ。しかしそれが叶わないケースを旅する中で数多く体験してきた。中国のチベットウイグルイスラエルパレスティナ…。彼等が一日も早く、彼等の文化、信仰の下暮らせる日々が来る事を願って止まない。

イメージ 1

(バラク・ハーン・マドラサ
 タシュケントウズベキスタンの首都、更には中央アジアのハブとなる大都市だが、歴史も古い街であり玄奘三蔵もインドを訪れる際にこの街に立ち寄り、彼の書物には石国と記されている。しかし度重なる大地震ソビエト時代の開発により、街はソビエト風の味気ないものになってしまった。

イメージ 5

(カファリ・シャーシ廟)
 そんなタシュケントにも旧市街は存在する。勿論わたしは其処へ向かった。旧市街の中心ハスティ・イマーム広場にはタシュケントで重要な三つの建物がある。一つはタシュケントの金曜モスク(中心となるモスク)であるジュマ・モスク。そして中央アジアイスラーム本庁であるバラク・ハーン・マドラサ。青い三つのドームのアンサンブルが美しい。そして聖人であり詩人でもあったカファリ・シャーシの廟。

イメージ 6

(シャイーヒ・ホバンデ・タフル廟)
 続いて訪れたのはタシュケントイスラーム大学の構内にある二つのイスラームの廟、シャイーヒ・ホバンデ・タフル廟とカルディルゴチビャ廟だ。

イメージ 7

(カルディルゴチビャ廟)
 この勢いで散策を続ければ、もう少し回る事も可能だったが、旅の最後の時間を中央アジア最大と言われるチョルスー・バザールで過ごす事にし、私はバザールへと足を向けた。