シルクロードを西へ!新疆編4敦煌迄

 嘉峪関を出発した。此処から敦煌の最寄り駅となる柳園迄は車をチャーターしての移動となった。嘉峪関を出ると其処に広がるのはゴビ砂漠。砂漠と言っても荒野に近い。最初こそゴツゴツとした岩場が続くがやがて地平線の彼方まで荒野が広がる。

イメージ 1

(嘉峪関から楡林窟)
 その光景はゴミゴミした空間の少ない大都会に暮らす私にとっては恐く感じる程広大だった。今私が乗っている車が故障したら、対向車が来なかったら、私は行き倒れ確定だ。

イメージ 2

(楡林窟)
 この柳園駅迄の車のルートで私は二つの石窟を訪れる。先ず最初に向かったのは安西県に差し掛かる地点に残る楡林窟だ。近くにこれから訪れる莫高窟が控えるせいか、観光客は少なめだが、保存状態の良い壁画や仏像が残されている。勿論その後に訪れた莫高窟では唸る様な壁画の数々が残されている。

イメージ 3

(楡林窟)
 この二つの石窟や、そしてその後も訪れる石窟に共通している事がある。どの石窟も人里から同じ位距離が離れた川沿いに立地していると言う事だ。それには理由があった。

イメージ 4

(楡林窟から莫高窟
 この地域は砂漠気候で樹木が少ない。よって膨大な壁画を描くには建築物を作るより石窟を掘る方が適していた。また石窟を掘るには長い年月を有する。水は無くてはならないものだから川沿いになる。また川沿いには侵食作用により石窟に必要な断崖の地形が多くあった。またこの地域独特の強風も遮る事が出来る。

イメージ 5

莫高窟
 では何故人里から一定距離離れた立地に石窟が掘られたか?その一定の距離とは約20キロ。それは此処に暮らす僧侶が一日で街へ生活用品を買いに行ける距離を目安にしたそうだ。それ以上遠ければ生活が困難になるが、あまり近すぎると僧侶が煩悩に煩わされる。そんな距離が20キロなのだと言う。

イメージ 6

莫高窟
 敦煌はこれまで続いた河西回廊の出口にあたり、漢の時代には此処が中国の国境となった。以降仏教がシルクロードを伝ってこの地に花咲と、数々の石窟が掘られ仏教芸術が其処に描かれた。この地域はそれ以降も仏教圏が存続したので、それ以西に残る石窟より保存具合の良い壁画を堪能する事が出来る。そして私は敦煌でもうひとつ楽しみにしていたものがあった。