ブータン旅行記 序章その1

明けましておめでとうございます!今年も宜しくお願いします!では早速ブータン旅行記始めたいと思います。

ブータン旅行記序章その1

 ブータンと言えば「幸せの国」と即答が返ってくる。ではブータンは本当に幸せの国なのか?国民は本当に幸せを感じているのか?感じているのだとしたら、それは何故?様々な疑問が沸いてくる。

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(写真は引用です。)

 ではそもそも何故ブータンは幸せの国と呼ばれる様になったのか?それは1970年代に一代前の四代目国王が何処かの会議で、ブータンGDPについて尋ねられた時、彼が「私の国はGDPよりGNH(国民総幸福量)を重視している。」と応えた事に由来する。そして現在までそれを指標に国造りに取り組んでいる。

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 しかし現状ブータンは世界最貧国のひとつでもあり、国王の発言も、負け惜しみに過ぎないのではと意地悪な考え方もあった。

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(写真は引用)

 では「幸せの国」と呼ばれる元となった国民総幸福量とは、どうした経緯で生まれたのか?私なりに調べてみた結果、それはこの国が辿った数奇な運命に辿り着いた。であるから旅行記を始める前に、少々長くはなるがブータンの簡単な歴史を紹介したい。

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(チベット ポタラ宮)

 7世紀、ソンツェン・ガンポ王がチベット(吐藩)を建国しチベット仏教が国教となる。当時はチベットブータンに国境と言う概念は無く、チベットから見ればヒマラヤ山脈以南のブータン一帯は、仏教の行き渡らない辺境の地と言った程度であったと思われる。

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(大昭寺 チベット)

 その後肥大化したチベット仏教は派閥に別れ抗争が激化し、争いに破れた派閥がヒマラヤ山脈を越えて南下し、インド人が暮らさない山岳部、つまり現在のブータン周辺で独自にチベット仏教を伝播しながら勢力圏を拡げていった。

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(ラサ チベット)

 それに対しチベット本国も追撃を加えたが、それと対抗していくうちに国としての意識が根付いていった。こうして出来上がった国、ドゥク派が勝利して作った国がブータンであり、ニンマ派が作った国がシッキムである。時に17世紀の事である。

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 しかしながら国としての纏まりには欠けており、いつも権力争いの危険に晒されている状態が200年も続く。そんな19世紀初頭、思いがけない驚異が二つの国を襲うのだった。