ブータン旅行記 序章その2

 思いがけない驚異、それは当時帝国主義の先鋒を行くイギリス帝国だった。インドを毒牙にかけ、更に南下政策を続けるロシア帝国を牽制する為のチベット方面の足掛かりとして、その道筋に当たる三か国、すなわちブータン、シッキム、ネパールを次々と武力で圧倒し保護国にしていった。

イメージ 1


 その際に当時イギリスには欠かせなかった茶葉の栽培の為、イギリスはダージリン等の高原一帯にネパールの労働者を大量に移住させた。こうした状態で第二次大戦は終わりイギリスはインドから撤退する。

イメージ 2

(写真は引用です。) 

 実際に訪れてみると良く解るが、ブータンは山間部に部族が集落を作り、それが纏まって出来上がった様な国だ。元々人口は驚く程少ない。現在でも70万人弱で鳥取県程しか無い。もっと規模が小さいシッキムは更にだっただろう。

イメージ 3

(ブータンの風景)

 そんなヒマラヤの裾にひっそりと暮らしていたチベット属の国に大量のネパール人を茶葉栽培の為呼び込み、そのままにしてイギリスは去った。これが後々ブータン、シッキム、二つの国にとって大きな問題を生む事となる。

イメージ 4

(ワガ国境 パキスタン)
 イギリスはインド西部ではインド、パキスタンの国境線を勝手に引いた為、その後多くの悲劇を産む事となったが、インド東部でも彼等は悲劇の種を落としていった。

イメージ 5

(写真は引用です)

 そんな中ヒマラヤ山脈の北側では中国が武力でチベットに侵攻し我が物にしてしまう。同じチベット仏教を信仰する二つの国は、とても中国とは相容れない。残された道はインドに頼る他道は無いのだが…。ヒマラヤの麓の二つの小国に、運命の時が刻々と迫っていた。