依存症
依存症と言う病気がある。世間では意思薄弱だから依存症になる、なんて考えられがちだが、依存症は脳のメカニズムが変わってしまう、列記とした脳の病気だ。
依存症にかかってしまうと患者の脳は、依存の対象が体内に入っている状態こそ正常な状態であると誤認してしまう。だから、一旦依存の対象が体内から無くなると、患者の脳は異常発生の警告として様々なサインを発生させる。発熱、発汗、喉の渇き、苛々、指の震え、重症になると幻覚、幻聴…。所謂世間で言われる禁断症状や離脱症状がこれに当たる。
しかし一旦依存の対象が体内に入れば、それらの症状は嘘の様に収まってしまう。これによって依存症患者は中々依存の対象から離れられなくなってしまう。
更に厄介な事にやがて依存の対象は耐性がついて、最初は少量で済んだ者がやがて大量に必要となっていく。脳はそれを正常と誤認し続けるが、体にとっては全くの異物。やがて患者は肝臓を始め多くの内蔵を破壊されたり、若しくは一般社会に協調する事が不可能となる。
依存症の怖いところは、脳が依存症に変わってしまうメカニズムが未だ解明されていない事。脳のメカニズムが依存症に変わってしまうその瞬間、それを患者は全く自覚出来ない事。そして現代の医学では依存症を患い変遷してしまった脳のメカニズムを元に戻すことは出来ない事。
依存症になる対象はアルコールを含む薬物が一般的だが、昨今はパチンコやギャンブルも含む事がある。それらに共通するキーワードは快感だ。薬物を除けば快感を味わおうとする行為は人間として当然の行為とも言える。これまで我々は少しでも快適な生活を送れる様に努力を続けてきた。そして日本は世界でもトップレベルの快適なサービスが行き届いた国となった。
しかし矢継ぎ早に次々と更新されていく快適なサービスの提供に、最初こそ有り難さを感じていたものの、その翌日にはそれが当たり前になり、やがてそのサービス無しでは日常生活もままならなくなっていく。…それは何処か依存症の症状に似てはしまいか?
私は良く第三カ国即ち発展途上国と呼ばれる国々を旅する。現地のガイドと会話する機会も多い。そんな中彼等は異口同音に口にするフレーズがある。
「日本人観光客はデリケート過ぎて世話が焼ける。」
ちょっとした飲食ですぐお腹を壊す。ちょっと日差しに当てておくと熱中症になる。5分でも待たせると苛々しだし、サービスの注文が事細かい云々。
快適なサービスに身を浸しているうちに我々は知らない内に、快適な環境下で無ければ生きていけない、快適な暮らし依存症に陥ってしまったのかもしれない。
私は仕事で良く駐車場の案内に赴く事がある。
「足が痛いから近い場所に停めさせてくれないか?」
「私は運転が下手だから広い所に停めさせて頂戴よ!
」
サービス慣れした人々の注文の遣り繰りに追われる毎日だが、ある日かなり高齢の夫婦が駐車場を横切っていた。杖をついた男性の方はよっぽど足が悪いらしくゼンマイ仕掛けの人形の様に危なっかしく歩いている。私は心配になって駆け寄った。
「中には身体障害者様用の駐車スペースもございます。必要でしたら此処まで車椅子用意致しますが?」
するとお婆さんはこう返答した。
「有り難うございます。
でも良いのですよ。
お爺ちゃん、このまま歩かせなかったら、きっともう歩けなくなってしまう。
そっちの方がずっと残酷な事でしょ。」
夫婦を見送りながら襟元を正された気持ちがした。筋肉は酷使しないと身に付かない。学ばなければ脳に皺は刻まれない。人は某かの負荷をかけ続けておかないと、その能力が衰えてしまう生き物だ。歳を取ったなら尚更の事。
現代は如何に快適な暮らしを金と変えるかの時代だけど、快と言う言葉の裏には魔物が潜む。昔の人は言ったものだ。
「苦労は買ってでもするものだ。」
と。