八つ墓村 前編

「祟りじゃー!○○小学校は呪われている!○○天神様はお怒りじゃ!お前が来ると血の雨が降る!祟りなのじゃー!」

 モップを分解してモジャモジャの部分を頭に被り、柄の部分を杖にして、映画に登場する濃い茶の尼に扮装しては教育実習生を困らせ担任を激怒させた。いや私だけではあるまい。当時の小学生の何人が濃い茶の尼になった事だろう。

イメージ 1



 これは77年に放映された松竹版八つ墓村が大ヒットして起きた現象だ。当時の邦画は今よりずっと影響力を持っていた様に感じる。勿論その影響は子供達だけでなく、それまで推理小説の中で人気だった八つ墓村を多くの一般大衆に知らしめた作品でもある。しかしこの八つ墓村は原作とは大きく異なった作品でもあった。

 原作八つ墓村は非常に多くの要素を含んだ物語であり登場人物も多く、トリックも複雑な為、これを完全に映画化する事は不可能だ。だからこれまでの映像化されたどの作品も大きな省略が繰り返されてきた。こうした脚本は映像化するにあたって必須な事であるが、一方原作のファンに取っては論議の的によくなる。原作ファンは原作に忠実である事を望むが、逆に忠実にし過ぎると、長くても3時間以内と言う時間的制約のある映画では詰め込み過ぎて原作のダイジェストに過ぎない作品に終わってしまったり、こじんまりした作品に終わりがちだ。

イメージ 2



 一方77年の松竹版は、これまで映像化された作品の中でも一番過激に脚本された作品だ。登場人物、エピソード等各要素を大胆に削り、削るだけでは無く、原作の主軸となっている八つ墓村の名の由来となっている落武者の祟りの部分を原作以上に拡大、強調して作品を作り上げた。

 その結果、原作では八つ墓村の祟り伝説を巧みに利用した連続殺人であったものが、映画では連続殺人犯は、血縁を辿れば落武者の血縁に繋がり、本人の自覚は無くともその殺人により、落武者の祟りが完結する。即ち八つ墓村推理小説としてでは無く、戦国時代から続く怨念憚として作品を描いているのだ。


 私は歴史物やその怨念物とか大好きだから、この展開も多いに好きだ。映画の冒頭で苦難の末この地に逃げ延びた落武者が、最初は友好的であった村人に恩賞金目当てに裏切られ、末代迄祟ってやると言い残し絶命するシーンが描かれる。原作では、冒頭に八つ墓村の謂われとして語られる、発端に過ぎないこの部分に松竹は本格的時代劇映画を作れる様な布陣を揃えている。落武者の一瞬で首切られる配下役に田中邦衛氏が扮するこだわり様だ。そしてラストシーン。全ての事が終わり、落武者惨殺の首謀者の家系である田治見家の血が絶えた八つ墓村を峠からしたり顔で見下ろす落武者達の亡霊。そのシーンは正にカタルシスに満ちていた。

イメージ 3


(田中邦衛氏、左)
 松竹版の八つ墓村は原作のプロットを借りた別作品だと思って見た方が正しい見方ではあるが、これだけ改編した事により強烈な印象を人々に与える結果になった。しかしながら、これがヒットしたおかげで、八つ墓村のおどろおどろしい部分だけが強調され人々の印象に残ってしまった事は非常に残念な事であるし、出版元の角川書店迄もが、横溝氏の金田一シリーズをオカルトの分野に押し込め、一時期は禍々しい表紙で販売していたのにも非常に残念に感じる。

 原作八つ墓村は映画と舞台設定や村の謂れ等根本的な部分は勿論同様だが、全く異なった作品であり、オカルトだからと敬遠してしまったいた人にこそ是非読んで頂きたい爽快な物語でもある。次回はそんな原作を紹介したいと思う。