2008メキシコ旅行記7

 マヤ文明は紀元前から13世紀まで、長きに渡ってユカタン半島で繁栄した文明であるにも関わらず統一王朝が出来る事が無かったのが大きな特徴のひとつだ。つまりパレンケやウシュマルと言った都市国家が群雄割拠していたと言う事だ。

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(提督の舘 ウシュマル遺跡)
 初期の頃はそれでも平和に彼等は過ごしていたが、後期に入ると人口が増加したのか、天候不純のせいか?彼等は戦国時代に突入した。ウシュマルはそれより東に位置したチェチェン・イツァと同盟を結び基盤を磐石なものとしたが、チェチェン・イツァが衰退すると同時にウシュマルもまた、衰退していったと考えられている。

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(尼僧院 ウシュマル遺跡)
 私が最後に向かったピラミッドこそ、先に述べたチェチェン・イツァ遺跡である。チェチェン・イツァには未だマヤ文明が穏健だった頃の遺跡と戦国時代に突入した時代の二つの遺構からなる。

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(チェチェンイツァ遺跡へ)
 古い遺跡はウシュマルと同盟していただけあって、ウシュマルで見た様式が同様に見られる。即ちひたすら雨神チャックの彫像をモザイクの様に積み重ね紋様とする様式だ。新しい部分の遺跡に入れば、そうした過去のある意味優雅な彫刻は失われ、レリーフも血生臭くなってくる。

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(ウシュマルと同様式で建てられた旧チェチェンイツァの建築)
 では新時代の遺跡を見ていこう。先ず天体観測を行ったと言われるカラコルだろう。マヤ文明天文学に秀でていたのは間違いないが、その容姿すら現代の天体観測場と似かよっている。

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(カラコル)
 しかし、遺跡の命名は大抵調査以前にイメージで勝手に名付けられたものも多く、それを鵜呑みにしては早計だ。例えばウシュマルの尼僧院等は僧院だった確証は無く、チェチェン・イツァのピラミッドの名称エル・カスティージョスペイン語で城壁)も全く用途の異なる名称だ。

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(球技場)
 戦国時代時の遺跡に球技場がある。これは何処のマヤ遺跡にも共通して残る遺構で、球技はマヤ文明では宗教儀式的役割を果たしていた。しかし戦国時代になると、その球技も過激なものへと変わっていく。神に捧げる生け贄を決める為の球技となるのである。

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(球技場のゴール 此処に球を潜らせればゴール)
 普通は負けたチームが生け贄になると想像するが、実は勝ったチームが生け贄になったと言う説が濃厚になっている。負けて奴隷として生きるより、勝って神の国への捧げ物となる事の方が光栄だと信じられていた様なのだ。

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(生け贄の戦士が斬首され、血飛沫が七匹の蛇となるレリーフ)
 戦士の神殿の上部などにあるチャック・モールと呼ばれた腹にお盆を乗せて寝そべる石像のお盆の上には生け贄となった戦士の心臓が置かれたと言われる。

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(戦士の神殿 階段上中央に寝そべった様な人形がチャック・モール)
 しかしこうした残虐な風習の数々は、ちょっと割り引いて考えた方が良い節もある。これ等はこの地を征服したスペインの見聞から伝えられた事が多いが、この地を征服したスペインが、自らの征服活動を正当化する為、現地の人々の悪習を過激に見積もった形跡もある。

「こんな野蛮な民族だから、我々が正当化したのだ!」

と…。いつだって歴史は勝者の都合で書き残されるものだから。