ブルネイ旅行記4

 再び街の中心に戻った。街の規模も小さく、見るべきポイントも二つのモスクと博物館程度。だけど此処からが私の旅の真骨頂、人々の暮らしが息づく旧市街を散策する事。

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(モスクの裏手にも水上集落が広がる)
しかし此処の旧市街は他所とは大きく事なり、カンポン・アイールと呼ばれる大規模な水上集落を形成しており、オールドモスクの奥と、都市部の港の対岸の二つの地域に広がっている。先ずはオールドモスク脇に広がる集落を訪れた。

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(いざ水上集落へ)
集落に行くには木で出来た桟橋を歩いて向かう。木の板は所々でギシギシと軋み、途中穴の空いた箇所もある。手摺も無い。独特の雰囲気に飲み込まれながら、綱渡りしている気分で桟橋を進み集落へと入った。

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(水上集落が見えてきた)
暫く進むとイスラーム帽を被った老人と擦れ違った。

「アッサローム・アレイコム」

と挨拶すると

「ワレイコム・アッサローム

と返ってくる。「こんにちは」を意味する言葉だが「貴方が幸せであります様に」の意味も含む、中国からアフリカまで通じるモスリム共通の私が大好きな挨拶の言葉だ。緊張していた心が一気に解けた。

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(おっと危ない!)
一旦陸上へ戻り、モーターボートのタクシーに乗って対岸のメイン部分の水上集落に渡った。水上集落には何でも揃う。学校から警察、消防署にガソリンスタンド…何でも水の上だ。

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(もう少し)
では何故彼等は水の上に暮らすのか?起源は先述した通り嘗てブルネイ王国が海上貿易の中継基地として繁栄した事にある。そして此処は熱帯地域。生活するには非常に暑苦しい。そんなこの地域で、吹き抜ける風が海面で冷やされる海面上が、天然のエアコンの作用があった為、水上生活の習慣が出来た。

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しかし、近代的な生活になって、衛生上の問題、火事を始めとした災害への対処等の為、政府は陸上への移住を推し進めているそうだが、一向にそれは捗らないと言う。それどころか私が訪れた頃には着々と老朽化した水上集落を、近代的な水上集落への建築ラッシュが始まっていた地域があった。勿論桟橋は手摺付きで、材質も材木から鉄やコンクリートへと様変わりしていた。

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しかし、近代的な密閉された建築では、通気性の良い古い建築ならではの自然のエアコンの作用を得る事が出来ないし、近代的な建築にはエアコンが完備されているのだから、ワザワザ水上に拘る必要性も無い筈だ。

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他所の水上集落では貧困層の住居であったり、漁業を営む民であったり、彼等が其処を離れられない某かの理由がある。

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一方、此処の水上集落で暮らす人々の多くは国家公務員等で水上に暮らさなければならない理由は見当たらない。家屋の外見こそ一見古臭く感じるがは中身は現代的装備で満たされ、彼等は陸上に一家族に付き複数の車を所有しているのは当たり前、彼等は日本以上の家庭環境を持っている。ならば、水上からでは陸に上がるのに一々ボートを使わねばならないのは不便にさえ感じる。それなのに彼等は何故水上生活を離れようとしないのだろう?

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(最深部には水上モスク)
そんな疑問を感じつつ水上集落の桟橋を散策した。狭い桟橋を両手に買い物袋を提げて擦れ違うオバチャン。此方が慌てるくらいな勢いで手摺も無い桟橋を駆け抜けていく子供達、桟橋から投網やら釣竿を垂らし、今夜の夕食のグレードアップを狙うオジサン達。 私は陸上の街の中心部を訪れた際、市民の姿が余りにも少ないと言う疑問を先に述べた。その答は、彼等は仕事や買い物の時だけ陸上に上がり、日常生活は水上集落で送っていたからだったのだ。

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そんな風景を眺めていて、ふと思った。大震災と言う壊滅的な打撃を受けて尚、三陸の人々は其処を復興させ故郷に住もうと絶え間ない努力を続けている。きっとそれと同じなのだ。

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(奥に水上集落が次々と新築されている)

彼等が此処を捨てないのは、ただ単に涼しさを求めたからでは無い。先祖代々続いてきた、育んできた暖かく緩やかな水上での生活、600年続いてきた彼等のDNAが彼等を此処から離さないに違いない。

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皆様へ
私事ながら、本日私歳を重ねまして年男になりました。
御祝いの言葉、ありがとうございます
本年も旅記事を中心にblog続けさせて頂きます。
本年度も宜しくお願い申し上げます。
m(。_。)m