首洗い井戸

 私は日々様々な場所を仕事で訪れるが、仕事と言う半強制で赴いた先であっても、其所に歴史を感じさせてくれる場所を見つける事が出来、そんな一瞬が楽しい。

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(斬られた重忠公の首を洗った井戸があった場所)

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神奈川県の横浜と海老名を結ぶ相鉄線の丁度中間に位置する鶴ヶ峰に建つ旭区役所、其所の駐車場に何やら非常に物騒な名前の標識があった。いや、それだけでは無く周辺を歩けば、まるで区役所を取り囲むかの様に首塚やら終焉の地やらオドロオドロしい史跡が残る。

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(重忠公の首が埋められた場所)

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説明を読めば畠山重忠…何処かで聞いた名だと記憶を辿れば、大好きな平家物語の後半で何度も登場する人物だ。関東に住む平家の血筋だったが、旗揚げの時から源頼朝に従い、平家討伐、鎌倉幕府設立、そして奥州へ義経討伐と鎌倉幕府創設前後に頼朝に尽力した人物だ。

しかしその後讒言により謀叛の企みありとされ、急遽鎌倉に馳せ参じる途中、この地で鎌倉方の大軍に迎え撃たれ、申し開きは武家の恥と、多勢に無勢で散ったとされ、彼の首を洗い、祀られた場所こそこの地だと言われる。また相鉄線で数駅先に南万騎が原と言う駅があるが、万騎が原の地名の由来はその時押し寄せた鎌倉方の執権北条氏の軍勢が集まった地である事だそうだ。

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(重忠公が亡くなった場所)

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いざ実権を得ると、其れまで尽力を尽くしてきた忠臣が無惨に殺されてしまうケースは古今東西多い。小説「項羽と劉邦」に登場する劉邦も、項羽を倒し漢を建てると、其れまで貢献してくれた忠臣を猜疑心から次々と粛清した。関ヶ原の合戦に勝利し江戸幕府を開いた徳川家康も、彼を支えた加藤清正福島正則を戦後、次々と御家断絶に追いやっている。

そんな中でも鎌倉幕府創建前後は、身内内の粛清の嵐が吹き荒れた時代だった。平家討伐に尽力した頼朝の二人の弟も、頼朝に疑われ次々と誅殺されてしまった。中でも義経の悲劇は今も語り継がれている。

二人の血を分けた弟を殺めてまで幕府の安定を図った頼朝だったが、死後二代、三代立て続けに暗殺され源氏は滅びる。その後執権として幕府を継いだ北条氏も、幕府創建時の忠臣達、梶原景時等を粛清し、その流れで重忠も命を落とした。

権力に憑かれた人間の浅ましさを見る様な想いになるが、犠牲となった重忠は人望が篤く多くの史書にも絶賛されているから、そんな彼の非業の死を悲しんだ人々により、今日までその史跡が残されているのだろう。

また、そんな彼を惜しむ声が大きかったからか、彼の血筋は絶やされる事無く、やがて畠山氏は室町時代に斯波氏、細川氏と並ぶ三管領を勤める一族となった。

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(旭区役所)

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(旭区のゆるキャラあさひ君)
それにしても歴史は不思議なものである。日本で初めて武家政権を打ち立てた平清盛率いる平家、平家を壇之浦で破り鎌倉に幕府を開いた源氏。しかしその源氏も三代で滅び、それに代わって執権として鎌倉幕府を切り盛りしたのは、平家の血筋の北条家、そしてその北条を滅ぼし室町幕府を開いたのは源氏の血筋の足利尊氏

平安時代の末期から、戦国時代の初頭まで、日本の政治はまるで源氏と平家が順番に執り行うかの様に務めてきた。

平家の旗は赤、対して源氏の旗は白、運命的に凌ぎを削った赤と白、その戦い、即ち源平合戦は現在では年末紅白歌合戦や運動会の赤組、白組に舞台を移し競い続けられている。