風に吹かれて~ザンジバル旅行記2

 空港に降り立てばワラワラと寄ってくるタクシーの運チャン達、そんな彼等の中から人の良さそうな一人を選び街へと向かう。彼等は必ず稼ぎが良い東海岸のビーチへと乗客を勧誘する。そちらにも滞在中には向かう事になろうが、金額の張るそちらには乗り合いバスで向かえば良い事。それに今回の目的はザンジバル島の歴史にある訳だから、目指すべきはその中心地ストーンタウンだ。

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運転手は必死に東海岸のビーチを進めるが私も譲らない。運転手はグッと堪えてハクナマタタ!と応える。ハクナマタタとはスワヒリ語で問題ない!と言う意味だ。その代わりストーンタウンでは彼の案内するホテルに従った。こうした国々ではタクシーの運転手がホテルの斡旋を兼ねる場合が多い。彼等はホテルから幾ばくかの見返りを貰っていると思われる。時にボッタクリもいるから注意が必要だが、善良な運転手ならホテル選びに裂く時間の短縮にもなる。

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ホテルに荷物を置くと早速外へと飛び出した。普通ならその足で路地裏へと消えていくのだが、今回はその足でタクシー乗車時にチェックしていた角を曲がる。すぐさま感動の色をしたビーチが広がった。

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そこで更に私は感極まってしまった。何故なら其処には今回の旅の重要なキーワードとなるダウ船が私の到着を待ってましたとばかりに浮かんでいたからである。昔交易に使われていたダウ船はもっと巨大なものだったろうが、現在ザンジバルに息づくダウ船は漁業などに使われる小型のものだ。

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昔、貿易風に吹かれてアラブの商人達がこの島を訪れた。あのシンドバッドも訪れたに違いない。そして伝説の旅人イブン・バトウータも訪れた。この旅の頃になるともう彼の名を見ると自分に運命的なものを感じていた。実は高い旅費をかけて、小さな島に過ぎないこの島に訪れる事を躊躇していた時期もあったのだが、彼がこの島を訪れた事を知り、ザンジバル訪問を決定した経緯がある。

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こうしてアラブとザンジバルは切っても切れない関係だったのだが、ヨーロッパに大航海時代が訪れ、喜望峰回りでバスコ・ダ・ガマがこの地を訪れ、アラブの商人が彼を助けてインドまでの航海を助けてしまったばっかりに、恩を仇で返されザンジバルポルトガルに占領されてしまう。

しかしそれも束の間の事。その当時インド洋の覇者オマーン王国がザンジバルを奪取しポルトガルを追い出した。更にはオマーン王国は首都機能をザンジバルに移す程、此島はオマーン王国にとって重要な位置を占める様になった。

しかしスエズ運河が開通し地中海とインド洋が直接行き来できる様になると、喜望峰回りの海路の交易の需要は激減し、更に蒸気船の登場によりダウ船の活躍の場も失われ、ザンジバルは衰退の一途を辿り、やがてアフリカ大陸の国々同様ヨーロッパ列強の植民地争奪戦に巻き込まれていく。

そんな折りヨーロッパからアフリカを目指す探検家達が押し寄せたが、そんな彼等の前線基地となったのがザンジバルだった。ジンバブエのビクトリアフォールを発見したリビングストンもこの島で英気を養った。今もストーンタウン郊外に彼が暮らした家が残されている。

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第二次大戦が終わると大陸のタンガニーカザンジバルは合併してタンザニアとして独立する。しかし前述の様に大陸とは大きく異なった歴史を歩んできたザンジバルは独自性が強く、現在でも大陸側とザンジバルを行き来するには同じ国でもパスポートチェックが必要となる。

また現代史では、この島で生まれた有名人として今は亡きクイーンのボーカルを務めたフレディ・マーキュリー氏が有名だが、そんな彼の聖地を巡ってこの島を訪れる観光客も多い。 

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この様に重厚な歴史を経て成り立ったストーンタウンにはスワヒリ文化を中心に、オマーン時代のイスラーム文化が根付き、またポルトガル時代やイギリス統治時代に築かれた教会等、複合した歴史遺産がある事から2000年に世界遺産に認定されている。