スーレーパヤー2

 ベトナム戦争時、アメリカは積極的に戦場カメラマンを前線に送り込んだ。それは日本人を含む多くの戦場カメラマンが命を落とす事にも繋がったが彼等の撮った写真がきっかけともなり戦争反対の機運が高まりベトナム戦争終結した。

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(沢井教一撮影ピューリッツアー賞)
一方戦争をしかける側も、その写真の持つ民衆に及ぼす影響の大きさをベトナム戦争で学んだ。彼等はイラク戦争の時にはフリージャーナリストの前線入りを規制した。そこには軍で兵士達と寝食を共にした従軍ジャーナリストが加わった。長い間兵士と寝食を共にすれば、彼等との仲間意識が生まれる。仲間となれば仲間に不利な情報など流す筈がない。こうして従軍ジャーナリストはジャーナリズムに不可欠な普遍の精神を根刮ぎ奪われる。

彼等がもたらした映像は、アメリカ軍の到着をイラク市民が大喜びする映像だった。如何にアメリカ軍が正義の味方であるかを示す如く。これはただちに日本のテレビにも流された。しかし真相は大きく異なる事を伝えたのはフリージャーナリスト達が伝えたアメリカを呪い、戦争に怯えるイラク市民だった。

アメリカが伝えたのはフセイン圧政に苦しむ人々のみを中心に伝え、フリージャーナリストはその他の市民を伝えたのだろう。こうして複数の情報を付き合わせる事により、我々は真相に少し近寄る事ができる。一方的な情報に流されずに済む。

マスメディアは自分の社員を戦地には絶対に赴かせない。その隙間を埋める存在こそがフリージャーナリストだ。そのため多くのフリージャーナリスト達が命懸けの行為をして戦地へ入っていった。そうでもしないとこの業界で生き残れない現実がそこにある。そして多くのフリージャーナリストが戦地へ赴きそして散って行った。

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ベトナム戦争でピューリッツアー賞を受賞した沢田教一さん。私をアンコールワットへ誘った、地雷を踏んだらさようならの著者、一ノ瀬泰造さん。シリアで散った山元美香さん、後藤健二さん。そして長井健司さん。

そして戦場で亡くなられた訳ではないが、ヴェトナム戦争で戦地へ赴き、それを元に書かれた開高健氏の小説、輝ける闇は、死地を経験した者で無ければ決して得られない鋭利なナイフの様な読み味とユーモアに富んでいた。

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しかしながら昨今、そんなフリージャーナリストを誘拐して政治的に悪用する事件が多発し、フリージャーナリストの是非が問われる事になっている。先日旅券法を適用し、自称フリージャーナリストの出国を規制した事は、ジャーナリストの命を守る観点と国の危機を管理する観点からすれば妥当だったとは思う。

でもそれならばもう一歩踏み込んで、フリージャーナリストだけではなくマスメディアに対しても何らかの規制を張らないとフェアでは無いと私は思う。彼等に仕事を与え、そして金銭を渡すからこそ彼等は命を張るのだから。

ただしこれが行き過ぎると情報は片寄ったものに陥り易く、それは情報をコントロールしようとする者にとって好都合な結果となる。だからこそ我々は情報を精査する目を肥やし、疑ってかかるくらいの見極める眼力が必要となる。

シリアの内戦は最早5年以上経つと言うのになんで武器が弾薬が無くならないのだろう?彼等に武器を与えている大元は何処なのだろう?

何故突然イスラーム国があんなに強力になったのだろう?誰が彼等をあれほど強力に仕立てあげたのだろう?マスメディアが大きく取り上げない事実の裏に真相が見え隠れしていたりする。

映像や活字は、人にこれは真実であると思い込ませるトリックがある。統計によるとそんな中でも日本人は先進国の中でずば抜けて新聞やテレビの情報を鵜呑みにしてしまう国民性だと言われる。また先の大戦でも解る様に一度世論が傾くと一方的に右に習えな国民性でもある。

マスメディアの情報は事実だけを取得し、彼等の見解はあくまで一つの見解として捉え、様々なソースの情報を付き合わせた上で自分なりの判断を下す必要があるだろう。

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私は今回の旅の中で、7年前に私の旅を断念させた事件で亡くなった長井さんの最期の場所で、彼の御弔いをしたい と思っていた。彼はデモがあった大通りで息を引き取った。確かその大通りからはスーレー・パヤーが眺められた筈だ。しかし街は既に7年前とは大きく様変わりしてしまっている。私はパヤーが見える東西南北の大通りを手を胸に当てながら闇雲に歩いた。

長井さんは東南アジアの貧しい弱い立場の人々のルポルタージュで活躍したジャーナリストだ。あの事件も軍事政権の圧政に苦しむ民衆をみかねた僧侶達が起こしたデモの取材中に不幸が起きた。あれから7年、皮肉な事に長井さんの死をきっかけに民主化への動きは活発化し、ミャンマーは急激な成長を遂げた。アジアの弱い立場の人々を愛していた長井さんなら、あっちで「私の死がミャンマー民主化に、ヤンゴンの人の笑顔に貢献していたとするなら、私の死も無駄では無かったな。」なんて苦笑しているかもしれない。

目前に聳えるスーレーパヤー、その大通りに群れる屋台街に集まる群衆の活気を眺めていると、長井さんが最期に見つめようとしていたのは、ヤンゴンのこんな光景だったのでは無いかと思う。

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拝啓、長井さん。ヤンゴンの街もすっかり平和になりました。街に活気が戻り、人々に笑顔が戻ってきました。あれから7年、やっとこの街に訪れる事ができました。安らかに!

合掌