旧ユーゴスラビアを旅する完全版+スロヴェニア・ゴリツァ編

 少々長居したスロヴェニアを後にしてイタリアを目指す。本来はダイレクトにヴェネチアまでバスで行けるのだが、折角此処までやって来てダイレクトもつまらないので一ヶ所立ち寄ってから向かう事にした。

イメージ 11


 列車は一昨日訪れたシェコフヤ・ロカに停まり、昨日訪れたブレッド湖に停まり、挙げ句の果てにヴィントガル渓谷に停まり、ご丁寧に一瞬ではあるがヴィントガル渓谷の真上を通り抜けた。こんな事ならシェコフヤ・ロカとブレッド湖に一泊づつして移動しても良かったくらいだ。

イメージ 12


 列車はそんな大回りをして漸く国境の街ノヴァ・ゴリツァに到着した。ノヴァ・ゴリツァ駅を降りると何の変哲も無い広場に出る。何も事前に言われていなければ多分それを踏んづけて通り過ぎてしまうだろう。注意深く足元を確認する。あった!

イメージ 13


 スロヴェニアとイタリアの国境である。今はスロヴェニアEUとシュゲン条約に加盟した事から、パスポートチェックが廃止され、それにより国境の意味が殆ど無くなった。だからこの通り市民も旅人も国境に気づく事無く素通り出来る。

イメージ 14


 だが、ちょっと想像力を働かせて欲しい、イタリアとスロヴェニアが未だEUに加盟していなかった時の事を。今立っている国境を示すポイントには両国を隔てるフェンスが張られていた。ならば、ノヴァ・ゴリツァ駅はそのフェンスに向かって建てられていた訳だ。不自然とは思わないか?普通駅は人の出入りが多い場所に玄関を建てる筈だ。だのにもうそこから先へとは進めない閉じられた国境に向けて玄関が建てられている。この事がノヴァ・ゴリツァの歴史を物語っている。

イメージ 1


 ノヴァ・ゴリツァのノヴァとは新しいと言う意味で、本来ゴリツァと言うひとつの街だった。しかし第二次世界大戦が終わり、それに伴い国境が整備される時、ゴリツァはイタリア側と旧ユーゴスラビア側に分断されてしまったのだ。その分断が新ゴリツァ駅前に引かれたものだから、ノヴァ・ゴリツァ駅が不自然な方向に向いて玄関が開いているのである。分断と言えばベルリンが有名だが、イタリアとユーゴスラビアに跨がり分断された街があった。そしてそれはベルリンより長い時間分断されていたのである。

イメージ 2


 ノヴァ・ゴリツァ駅の一室に分断博物館が設置され、狭いながらも濃厚な資料が納められている。ユーゴスラビアは東側とは言え、次第にソ連とは足並みをずらした事から、イタリアとユーゴスラビアは少しは繋がりを持てたものの、それは市民レベルの事では無かった。その後ユーゴスラビアが崩壊、スロベニアが独立した事により両者の距離は大きく近づいた。しかし其処には国境が未だ立ち塞がっていた。そして訪れた2007年、スロベニアEUとシュゲン条約の加盟が叶った事で事実上国境が開放され、漸く二つのゴリツァがひとつに戻れたのである。

イメージ 3


 こうして何のチェックを受ける事も無く私はゴリツァ、すなわちイタリアへの入国を果たしたのであった。歩く風景はリュブリャーナのドイツ風の風景からいつしかイタリアそのものの旧市街の風景に変わっていた。それが新鮮と感じるより元に戻ったと感じるのはどうしてか?と思っていると、訪れたゴリツァ城の城門に刻まれた有翼の獅子すなわちサンマルコが私に教えてくれた。サンマルコはヴェネツィアの紋章。つまりロヴィニやピラン等これまで私が訪れた街同様、ゴリツァもヴェネツィアが支配した街だから、街の様式が似ているのだ。

イメージ 4


 ひとしきりゴリツァの旧市街の散策を終え、イタリア側のゴリツァから列車に乗ってヴェネツィアへと向かった。列車は本土側にあるヴェネツィア・メストレ駅を過ぎると干潟に引かれた橋を永遠と走る。両側は勿論海だ。ヴェネツィアへやって来た事を実感する瞬間だ。まもなくして列車はプラットフォームに到着する。終着駅ヴェネツィア・サンタルチアだ。駅を出てたじろぐ、普通駅を出れば、客待ちのタクシーで溢れ、バスが行き交う。そんな風景は此処ヴェネツィアには全く無い。旅人が目にするのは一本の大きな運河と、運河を行き交う船だけだ。脇目も降らず運河の縁に腰掛けヴェネツィアの景色を堪能すうる。
キタァァァァ~ーーー!!

イメージ 5


これが正直な感想だ。
なんと25年ぶりに還ってきたヴェネツィア。25年前、この迷宮都市にこてんぱんにされるくらい迷いに迷った。でも迷えば迷う程面白い街、それがヴェネツィアだった。今回はどうだろう?先ずは今日予約している民宿へ辿り着ける事が第一のミッションだ。大丈夫、今回はMaps.meと言う現代の秘密兵器もある。

イメージ 6


 Maps.meも言う通り、今回は敢えてリアルト橋を通らず、迂回して宿へと向かった。そちらのコースはヴェネツィアらしくないゆとりある大通りが走っていた。だけどそれは最初のうち、やがて道は細くなり、曲がりくねり本来のヴェネツィアらしさを表し始める。厄介なのは運河だ。単純に道に迷うだけでは無く、時に運河が立ちはだかる。道だけでは無く運河さえも出鱈目に設計された如く無秩序に走っている。全く人の想像力を超越していて先読みが出来ない。秘密兵器のMaps.meもこれほど入り組んだ街だと咄嗟に反応しない。再び私はヴェネツィアの罠にはまっていった。

イメージ 7


 何とかニアピンだろうと言うところで近所の子供達の手伝いもあって探し当てた住所はどうやら違っていた様だ。どうしよう?宿主に電話をかけて道を尋ねようにも現在地が解らなければ伝えようが無い。そんな時ふとイスラームの街の迷宮を旅していた時の事を思い出した。迷宮と言えどそこには幾つかの広場がある。此処ヴェネツィアも同様だった。

「そうだ!広場の名前を伝えれば良いんだ!」

 私は宿主に電話をかけ、そして自分が今いる広場の名前を伝えた。今、私はサンタ・マリア・フォルモーザと言う広場にいるのですが…。やっぱり私はニアピンにいた。すぐに宿主は来てくれた。

イメージ 8


 広場から狭い道に入り、更に人一人がやっと通れる様な狭い道に入った。これでは解る訳が無い。その通りの端っこの邸宅の最上階が宿となっていた。老夫婦が独立し出ていった子供達の部屋だろう二部屋を民宿として貸し出している。そんな家庭的な民宿で、とても優しいイタリア紳士だった。

イメージ 9


 案内された部屋の窓を開けて思わず鼻血が出そうになった。これぞベネチアって風景が窓から広がっている。更に共同のバスルームからはサンタ・マリア・フォルモーザ協会の尖塔の向こうに、サンマルコ寺院のドームと鐘楼が見える。私は遂にヴェネツィアにやってきた事を再び実感し噛み締めた瞬間だった。

イメージ 10