旧ユーゴスアビアを旅する完全版+セルビア・ベオグラード編

 宿に屯するニャンコに見送られベオグラード散策が始まった。鉄道駅からそう離れていない場所にベオグラードの官庁街がある。その一角のビルはまるで廃墟と言うか、事実廃墟だった。これはコソボ紛争時に西側の調停案を蹴ったばかりにNATO軍の空爆を受けた跡である。サラエボモスタルでも銃痕をそのまま残す事で被害を受けた悲劇を忘れまいとするのに加え、見るものに強烈な意思表示を訴えかけていたが、此処でもまた爆撃を受けた恨みを解体する事無く、無惨な姿を残す事で見る者に受けた被害の大きさを訴えかけている。

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 我々西側に暮らす人々にとってはNATOや国連は良いイメージに映るかもしれないが、此処セルビアでは悪の権化、至るところにNATO=ナチスとかファシストと殴り書きの落書きを見る事が出来る。ところ変われば考え方も変わる。立場が変われば正義も変わる。私の好きなゲームの主人公が言っていた「この世に絶対悪は存在しない、常に相対悪と戦っているのだ。」と言うフレーズを思い出さずにはいられないが、逆に絶対正義なんて言うものもこの世には存在しない。政治家が言う正義なんて大義名分に過ぎないのだから。

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 続いてセルビア正教の中心的教会として、また東方正教会最大規模の教会として建造されている聖サヴァ教会を訪れた。教会は紛争の影響で経済が悪化した為か未々内装は目下工事中だ。セルビアの歴史は他の旧ユーゴスラビアの国々同様オスマントルコオーストリア=ハンガリー帝国に代わる代わる支配されると言う歴史を辿ったが、セルビア民族はユーゴスラビアを形成した南スラブ人の中で最大の規模を誇る民族であり、他の国より王国として独立していた時期も長くある。こうした事からユーゴスラビア連邦の前身であるユーゴスラビア王国時代も連邦時代も常にリーダーとして他国を率いる立場であったと同時に圧倒しようとしたとも言える。セルビアは最大勢力である誇りと共に奢りもあった。チトーの時こそそれが封印されていたが、ミロシェビッチと言う小者が登場した結果身を滅ぼす事となってしまった。

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 行き過ぎた民族主義者が台頭すれば、それの行き着く先は戦争でしかない。自分達こそ…と言う連中が意見をぶつけ合えば争いしか産み出さない。

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 だが昨今アメリカ・ファースト等と声高に叫ぶトランプ等が台頭してきている。とても不安な世界情勢ではある。

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 国会議事堂だろうか?それに聖マルコ寺院等を見学しながら街の中心を目指した。

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 それまでは雑然とした印象だったが、街を貫く歩行者天国クネズ・ミハイロ通りまでやってくると、さすが一国の首都の目抜通り、重厚な建築に挟まれ、日曜ともあって多くの人々で賑わいを見せていた。

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 その通りはカレメグダン公園まで続いている。この公園はベオグラードの歴史的な城塞跡を公園として整備したものだ。なるほどサヴァ川とドナウ川に挟まれた軍事的要衝に位置している。広大な敷地には軍事博物館や教会があり、ベオグラード市民や観光客で賑わっている。

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 再び街の中心まで戻りサヴァ川を渡った。此処から眺めるベオグラードは中々美しいものがある。

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 そんなサヴァ川からドナウ川にかけて、隙間も無い程ボートハウスが停泊している。大抵はレストランだが、中にはホステルもある。

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とてもお洒落なものもあったが、高そうなので値段が外に明記されている一軒を選び、ドナウの流れを楽しんだ。

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 更にドナウ川沿いの散歩を続けた。この道も日曜を楽しむベオグラード市民で多いに賑わっていた。市内の公園より観光客が少ない分余計ローカル色が強い。そんな一角に移動式遊園地があった。子供達がはしゃぐ姿が私の心を癒してくれる。そんな移動式遊園地を眺めながら私は過去の旅を思い返していた。

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 あれは南アフリカでの出来事。未だ南アフリカアパルトヘイトを撤廃したばかりの頃だ。私は世界最悪の治安の都市と呼ばれたヨハネスブルグのホテルにいた。散歩に行こうとエレベーターに乗ると、同乗していた黒人女性に、殺されるから散歩なんて行くなと言われた。ホテルのフロントに問い合わせたが、言葉が丁寧なだけで同じ回答が返ってきた。ではツアーを申し込もうとしたが、何処も催行していなかった。じゃあずっとホテルに缶詰にされるのか?とちょっと苛ついてしまった私を黒人のホテルマンが、自分の弟をガイドとして推薦してくれた。

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 そんな彼に導かれてヨハネスブルグの街を観光した。時に「此処は危ないから赤信号でもぶっちぎる。ドアのロックは確実にしろ。発砲音がしたら伏せろ!」なんて言う場所もあった。やがて一通り見終わると、彼は良いところがあると私をとある場所に連れていった。それは何かの催し物の会場であったが、日本にしてみれば大した事の無い出し物だった。やがて一通り見終えて、併設された移動式遊園地に我々は赴いた。此処もディズニーランドや各種絶叫マシーンを揃えた日本の遊園地に慣れた私にはつまらないものだった。だけどガイドの彼は客の私以上に楽しんでいる様だった。なら折角なので私も楽しまなきゃと彼を此処の目玉であろう小さなジェットコースターに誘った。最初は怖じ気づいていた彼だが、一回乗るとツボに嵌まってしまった様だ。彼は子供の様にはしゃぎまくった。そして閉園まで何度も何度もジェットコースターに乗った。

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 遊び疲れてフェンスに凭れて夕陽を眺めた。彼の黒い肌に流れる汗が夕陽に照らされ輝いていた。彼は大満足そうに面白かったと連発した。そして最後にふと小さな声で

「今度いつ乗れるかなぁ。」

と呟いた。私はハッとなった。此処は南アフリカ。これまで黒人差別の法律があった国。黒人は水呑場さえ白人とは別の場所だった国。黒人の彼は決してジェットコースターなんかに乗れる身分では無かった筈だ。だけど例えばインドにカースト制度が法律としては撤廃されたが、人々の間では色濃く残っている様に、南アフリカだって、アパルトヘイトは撤廃されたとは言え、黒人の彼はひとりではとてもジェットコースターに乗る環境では無かった筈だ。そしてそれも移動式遊園地。イベントが終わったら去ってしまう。彼がジェットコースターに乗れる機会は、殆ど無いと言って等しかったのだ。それに気づいて私は胸が締め付けられる様な思いになった。例えそれが私には子供騙しに過ぎなくても、それがかけがえの無いものの人達もいる。彼と一緒にジェットコースター乗れて良かった。私の頬にも夕陽に輝くなにかが流れた。

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 そんな遊園地を横目にして更にドナウ川沿いを歩いて目指すゼムン地区に到着した。此処はベオグラードから程近いがオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあった場所故、ベオグラードより西欧の臭いが濃厚な地域だ。グラドシュの丘で歩き疲れた足を休めながらゼムンの展望を楽しんだ。

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 帰りもテクテクドナウ川を歩いて帰る。途中白鳥と戯れ、みんなが食べてる玉蜀黍を私も真似して頬張りながら歩みを続ける。この平和な光景を見れただけでも、ベオグラードを訪れて良かったと思う。そうでなければ私の中でセルビアユーゴスラビア紛争の首謀国でしかなかったと思う。政治を憎んで市民を憎まず。いつも悪いのは政治なのだ。彼等はいつだって自分の金儲けの為に正義とか市民が大好きな言葉を使い、そして時に恐怖を煽り、戦争に巻き込んでいく。

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 漸くベオグラードに戻る頃夕陽が待ってましたとばかりに沈んでいく。

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 私は最後にスカダルリヤ地区を訪れた。此処はお洒落なレストランが建ち並び、ベオグラードのモンパルナスと呼ばれるそうだ。そんな一角に私は以外なものを発見した。サラエボやノヴィ・パザルで見かけたオスマントルコ様式の水汲み場だ。ベオグラードも嘗てオスマントルコに征服された。が、オーストリア帝国に支配が変わり、やがて独立が叶うとオスマントルコ的な街は取り壊され、ヨーロッパ的な街並みにベオグラードは改築された。

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 だから現在この街にオスマントルコ時代の名残を残すものは少ない。しかしそんな中でこの水汲み場だけは生き残ったのだろう。そして嘗てオスマントルコ時代、この地域がベオグラードの中心を成す場所だったのだろう。イスラームの街の中心には水汲み場がありそれを中心にバザールやチャイハネが軒を並べた。その名残が現在のレストラン街に姿を変えたのだろう。夕暮れのレストランのかきいれ時、夕食を華やかにする楽隊が演奏を披露している。此処でもセルビアの平和な光景を楽しむ事が出来た。

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 あっという間だったが、そろそろこの国ともお別れの時間が迫っている。再び夜行のバスに乗りセルビア犬猿の仲とも言えるクロアチアの首都ザグレブを目指す。