旧ユーゴスラビアを旅する完全版+ボスニアヘルツェゴビナ・サラエボ編その1

 ヨーロッパの鉄道駅は大抵街の中心から離れているものだが、此処サラエボも例に漏れない。寂れた駅舎を抜け、うらぶれた通りを歩き、街の中心を目指した。途中だだっ広い大通りに出る。狙撃通りだ。ボスニア紛争時、セルビア軍はサラエボの周囲を囲む山々に陣取りサラエボを包囲、遮るものの無い大通りはセルビア軍の格好の狙撃ポイントとなった。普通戦争は軍人同士が戦うものだが、この紛争に於ける目的は民族浄化にあったから、一般市民も女性も老人も子供さえも標的であった。サラエボの人々はこの大通りを横断する事すら命懸けの状態に陥り、誰ともなくこの通りは狙撃通りと呼ばれる様になったと言う。

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 通りには一際目立つ黄色い建物がある。ホリディイン・ホテルだ。紛争時戦場カメラマンが屯していたホテルとして有名だ。戦場カメラマンは戦争の真実を世界に発信する役割を果たしていたが、地元の人々からすれば、市民の不幸を写真に納め、それを金に換えるハイエナの様な存在だった。事実市民が狙撃され、命を落とそうとしている中、彼等は救出に向かわずファインダーを追い続けた。この通りを歩いていると何処か違和感を感じた。普通の街ならビルは並んで建っているものだが、此処のビルは不自然にビルとビルの間隔が広いのだ。そしてどのビルも疲れ果てている。この街は内戦の傷跡を未だずっと忘れられずにいるかの様だ。いや忘れさすまいとしているのかもしれない。

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(セルビア正教会)
 サラエボオスマントルコによって都市化された。地名のサラエボトルコ語の宮殿を指すサライから派生したものだ。オスマントルコ時代は宗教的に寛容だった為スペインを追放されたユダヤ人が多くこの地に移り住み、またキリスト教世界でもこの地はカソリック東方正教会の境界にあたる為、サラエボイスラーム教、カソリック東方正教会ユダヤ教と言う4つの宗教が共存する世界でも珍しい街となった。

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(カソリック教会)
 それが評価され、サラエボは共産圏初のオリンピックの開催地となった。しかしそのたった7年後、ボスニア紛争が勃発すると、その複雑な宗教構成故に、サラエボユーゴスラビア紛争の中でも最も凄惨な戦いの舞台となってしまった。皮肉な事に、民族の協調の象徴として築かれたオリンピック会場は、余りにも急激に人の命が失われ、埋葬する事すら危険な為、紛争で亡くなった人々を埋葬する為の墓地と化した。のっけから重たい近代史を見せつけられた。

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(墓地と化したオリンピック競技場)
 ちょっと足取り重く旧市街へと辿り着けば、其処はまるでオーストリアに迷い込んだかの様な光景だった。何故ならオスマントルコが衰退後、ボスニアオーストリア=ハンガリー帝国に統治されたからだ。オーストリアらしくマリア・テレジアの好きだったクリームイエローに塗られたビルもある。街にはヨーロッパ人が大好きなオープンカフェが建ち並び、皆エスプレッソを楽しんでいる。

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(オーストリア調の旧市街)
 更に足を伸ばしてビックリした。ヨーロッパ的な風景が突然オスマントルコの世界にガラリと変わる。街にはモスクが建ち、広場の中心には水呑場。チャイハネでは男達が水煙草を楽しみながらトルコ珈琲を嗜んでいる。いや、それだけでは無い。旧市街のそれほど広く無い空間にモスク、カソリックの教会、東方正教の教会、そしてユダヤ教シナゴーグが存在する。サラエボはヨーロッパのエルサレムと呼ばれるが、正にそのものだ。此処は嘗てどんな宗教の人々も共存出来た街だった事が、この風景が無言に、だけど強烈にアピールしているかの様だった。

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(上の場所から5分もかからずトルコ調の街並みに)
 私はこの旅に出る前に幾つかの紛争に関したエピソードに目を通してきた。その殆どが目を背けたくなるものだったが、中には希望を捨てないサラエボの人々を描いたものもあった。「サラエボチェリスト」は、ただパンを買いに出掛け、砲撃を受け亡くなった22人の犠牲者の為に、22日間戦場でチェロを弾き続けた実在した男性の話。彼の演奏する音色が、紛争の中極限状態に陥り人間性を失いつつあるサラエボの人々の心を救う物語だ。現在では彼が演奏していた広場では、老人達が巨大なチェスを平和そうに楽しんでいた。

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 ブルバニャ橋と言うなんの変哲も無い橋がある。紛争中初めて被害者の出た橋でもある。橋は遮るものが無いので、大通りと同様に格好の狙撃ポイントでもあった。先に述べた通り、宗教に寛容なこの国では異教徒間の結婚も当然の様に行われたが、紛争後それが激変した。多くの異教徒間の恋人や夫婦が別離を決めざる得なくなった。

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 そんな中、とある異教徒間のカップルが愛を貫く為この街から脱出を試みた。その為には危険極まりないこの橋を渡らなければならない。固い決意の下二人は橋へと向かったが狙撃手はそんな二人も見逃さなかった。彼氏は即死、彼女は急所を外した。彼女は最期の力を振り絞った。余りの銃撃に住民達の救出は遅れ、やっと二人の下に辿り着いた時、二人は寄り添う様に息を引き取っていたと言う。以来この橋はロミオとジュリエットの橋と呼ばれている。私がこの橋を訪れた時、物憂そうな女性が橋の欄干に佇んでいた。私は彼女も追悼に訪れたのだろうと思っていた。すると何処からとも無く現れた彼氏が彼女の手を取って一瞬のうちに橋の向こうに連れていってしまった。それほど小さな橋なのだ。でもあの時、二人にその距離は永遠に感じた事だろう。この橋は二人にとって明日に架ける橋だったのだ。

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 そんなロミオとジュリエットの橋からもう少し下流に、同じく短い大した橋では無いのだけれど、歴史的に重要な橋がもうひとつある。ラテン橋と呼ばれる小さな橋だ。此処でオーストリアの皇太子がセルビア民族主義者に暗殺される事件が起きた。これをきっかけに第一次世界大戦が始まった。

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 その後旧市街や、此処も紛争時大きな被害が出た青空市場を巡った。青空市場では私が大好きな生活感溢れる光景が復活していて嬉しくなった。

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 そして夕暮れにはサラエボを見渡せるオスマントルコ時代の要塞跡に登ってサラエボを見下ろしながら、其処で出逢った地元の悪ガキ達と会話を楽しんだ。後日この悪ガキ達のおかげで一波乱あろうとは勿論この時私は知る由も無い。

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