旧ユーゴスラビアを旅する完全版+民族浄化とは

  民族浄化ユーゴスラビア紛争を語る上で避けては通れない言葉でもある。語源はユーゴスラビア紛争を終結させる為、セルビアを一方的に悪とし、セルビアを屈服させる為のメディア戦略の一貫として彼等が行った悪行を簡潔にアピールする為に作られた言葉だ。当初はホロコーストと表現していたが、ユダヤ人が難色を示した為、別の表現が必要となり生まれた言葉が民族浄化と言う事になる。

それではいったい民族浄化とはどう言う行為だったのか?簡潔に言えば、味方の領土に暮らしている異民族を殺害を含む様々な悪意に満ちた行為によって排除する事を指す。

近代では第二次世界大戦中、ナチスの傀儡国家であったクロアチアが自国領に暮らすセルビア人をドイツが行ったユダヤ人虐殺とリンクして自国領のセルビア人を虐殺した行為は正に民族浄化と言える。

民族主義がぶつかり合い、泥沼の紛争となったユーゴスラビア紛争は、正に民族浄化合戦であったとも言える。セルビアが一方的に行ったと言うのは、西側諸国が戦闘に加わる為に作り上げた大義名分であり、実際は双方民族浄化を行っていたのは間違いない。

私は更に調べる内に最初のユーゴスラビアへの旅をキャンセルしようと思った。それほど人道を外れた行為のオンパレードだった。排除すべき集落に暮らす異民族の男は殺す、女は犯す。ただ犯すのでは無い。その女性が身籠るまで犯す。そして中絶出来ない時期まで監禁する。産んだ子供には犯した民族の血が流れる。敵の子供を産んだ女性は最早元のコミュニティには戻れない。こうして敵の民族のコミュニティを徹底的に破壊し其処に暮らす事を不可能にする。こんな行為をお互いがやりあったのだ。調べていて吐き気がした。こんな事する民族が暮らす国になんて行きたくないと思ったのだ。

しかし実際に訪れて、美しい風景の中に暮らす、美しい心を持った人々と触れあい、そのギャップの激しさに私は戸惑った。どうしてこんな優しい人々が、あんな人道外れた行為を行ったのか?

こんな事を読んでしまうと、この先この旅行記を読む事さえ嫌になってしまわれたかもしれない。ただ、私は此処で起こった現実から目を背けてはいけないと言う想いで、覚悟を決めて此処に文章にした。どうか、ユーゴスラビアの人々が特別な、そしておぞましい種類の人間達とばかりは思わないで欲しい。いやそれ以上に素敵な人達だったのだ。

 信じられない様なら思い返して見て欲しい。 第二次世界大戦中、勤勉で真面目なイメージのドイツ人が、ユダヤ人を世界から抹殺しようと考えていたのだ。世界から礼儀正しく謙虚だと思って貰えてる我々日本人だってアメリカやイギリスを鬼畜だと信じて疑わなかったし、中国人捕虜を人体実験し、敗色が濃くなると自国の若者を爆弾積んだ片道燃料の飛行機に詰め込み敵に体当たりさせ虐殺した。どんな国だって戦争と言うものが国を、国民を狂気にさせる。ユーゴスラビアが特別では無い。

私が出会ったユーゴスラビアの心美しき人々も、時に悪意を持った政治家に扇動され、要らぬ恐怖心を煽られ、操られた結果、歴史に残る人道を外れた凄惨な殺し合いを正当化してしまったのだ。

ユーゴスラビアは遥か彼方の国だけど、それは決して他人事では無い。いつ我々だって政治がどちらかに極端に傾いた時、翻弄され操られ、豹変してしまうか解らない。自分の国を愛する、自分の民族の平和を守る。それは多分世界中の人々が抱いているだろう共通の気持ちだ。しかし歪んだ政治家がそんな当たり前の気持ちにつけこみ、扇動し、悪用した結果が民族浄化だと言える。ならばこの惨劇は世界の何処で発生しても決して不思議では無い。私がこの問題で一番恐ろしく思った事だ。