旧ユーゴスラビアを旅する完全版+ボスニアヘルツェゴビナ・モスタル編

ボスニアヘルツェゴビナに入国するとバスは海岸沿いを離れ内陸に分け行っていく。車窓からは長閑な風景が続くが、其処に不自然に廃墟と化した家屋が点在し内戦の傷跡を今に伝えている。モスタルに到着すると宿屋の呼び込みや自称ガイドがワラワラと集まってきた。ドブロブニクでもシーズンになるとSOBEと呼ばれる民宿の呼び込みがあるらしいが、これ程では無い。

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(注:決してエロいホテルではありません。)
 そんな風景を目の当たりにし、ちょっと懐かしさを感じた。アジアを旅しているとそんな風景は日常だからだ。これがヨーロッパに入るとパタンといなくなる。お国柄なのかそれとも貧富の差からくるものなのか?つまり、お金持ちは様々な問題を自己完結出来てしまうから他人の事等余り気にする必要が無いが、貧しき者は人々の繋がりや助け合いが必要不可欠であり重要な事なのかもしれない。そう考えると人は富んだ事で人間臭さすら失ってしまうのかもしれない。バス停に屯するおよびでは無い歓迎者達、時にウザくも感じるが、いざいなくなると寂しくも思う。そんなアジアではお馴染みだった輩に久々に出合ったモスタルのバス停だった。

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(銃痕だらけの商店)
街を歩けば普通に生活を送っている建物に残された銃痕が余りにも生々しく残され、また廃墟のまま取り残された建物も多く、様々な事情があって取り壊せないものもあるだろうが、それ以上にわざと取り壊さずに残してあるだろう意思を感じた。その意思が、「この恨み忘れまい!」と言う怨嗟によるものでは無く、いつの日か「この悲劇繰り返すまい!」と言うものに変わって欲しいと心から願わずにはいられない。

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先に紹介したが、ボスニアヘルツェゴビナ紛争は初めは独立に反対するセルビア人と独立を望むクロアチア人とボシュニャク人との抗争であったが、途中からクロアチア人とボシュニャク人との間にも亀裂が入り三つ巴の構想となった。モスタルはそのクロアチア人とボシュニャク人が激しく戦いあった場所となった。と言うのもこの街では川を挟んでクロアチア人とボシュニャク人が共存していた街だったからだ。

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 街にはスタリ・モストと呼ばれるオスマントルコ時代に作られた美しい石橋が架かっていた。モスタルと言う地名も橋の守り人と言う意味だ。しかし民族紛争が起こるとイスラーム建築であるこの橋は、クロアチア人の格好の攻撃目標とされ93年に破壊されてしまった。以来両民族は川を挟んで東西に別れ、決して交流する事無く暮らしていると言う。橋自体はユネスコにより可能な限り破壊された残骸を再利用し、昔ながらの工法で復元され世界遺産に認定された。歴史的イスラーム建築としての世界遺産ではあるが、ユーゴ紛争の悲劇を後世に伝える負の遺産としての意味合いも含まれていると言えるかもしれない。

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 それにしても驚かされた事はカソリック色一色のドブロブニクからバスで僅か3時間の距離に、まるでトルコの田舎街に紛れ込んだかの様な風景の街並みが拡がっている事だ。それはオスマントルコがこの地を支配していた事に由来しているが、現在尚此処まで当時の姿を残しているとは思わなかった。

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 内戦の終わった現在、徐々に旅人も戻りつつあり、スタリ・モスト周辺のイスラーム色濃厚な土産物屋通りには大勢の観光客で賑わっている。売られている商品もトルココーヒーの器のセットや銀製品等イスラームならではのものが多いが、その中に内戦時に使われた薬莢を利用したボールペン等、痛々しい思い出を甦らせるグッズも少なくなかった。

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 モスタルはネトレバ川の自然美と小さなモスクの人工美が溶け込む小さな美しい街だ。そんな街を歩いていると
「写真を写して欲しい。」
と女の子から声がかかったので、勿論とカメラを預かろうとすると、どうやら私と一緒に写りたいのだそうだ。此処では未々東洋人は珍しい存在なのだ。(11年当時)こんな平和なひとときを過ごしていると、以前此処で激しい内戦が繰り広げられた等嘘の様に感じてしまう。

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 南欧らしい明るさに満ちたドブロブニクの人々、素朴なボスニアの人々、二つの民族そのどちらも素敵な人ばかりでとても争い合う様な人だとは思えない。だからこそ余計胸が痛む。そんな街並みの一角や、橋の袂に「Do not forget 1993」と刻まれた石碑を見て、此処に暮らす両民族の間に刻まれた溝の深さを思い知る。ある人は言う。

「橋が復興して平和が戻ったと思われたらたまったものでは無い…。」

 いつの日か「忘れるな」と書かれた文句がネガティブなものからポジティブなものに変わる日が来る事を願わずにはいられない。散策を続けていると、時折橋の周りが騒々しくなる。ダイバーが橋から飛び降りたのだろう。モスタルでは毎年スタリ・モスト飛び込み競技が行われる。その飛び込みが出来てこそモスタルっ子となれるのだ。今では観光客からのチップ稼ぎで観客が集まると随時飛び込みが行われるが、以前は伝統行事としてクロアチア人、ボスニア人分け隔てなく参加する行事だった。が、内戦が事態を一変させ、内戦後はボスニア人だけでこの競技が行われている。

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 私は以前TVでこの街を特集した番組を見た。ダイバーのチャンピオンは内戦でクロアチア人に肉親を殺された。それ以来頑なにクロアチア人との接触を避けて生きていた。しかし彼の子供がそんな雰囲気に風穴を開けた。友人であるクロアチア人に競技の参加を頼んだのだ。勿論父も友人も、最初は頑なに断った。だが彼は決して諦めなかった。大会の日、クロアチア人の友人は野次と罵声に包まれながらスタリ・モストから飛んだ。そして彼は言い残した。

「きっと私達は変われるんだ…。」

 橋の復興は大変な作業だった。川に崩れ落ちた本来の部分を極力拾い集め、それらを繋ぎ合わせ足りない部分はオリジナルの石材と同じ山から石を切り出しオリジナルと同じ工法で復元されたと言う。しかし、崩れてしまった両民族の心の復興は更に過酷な道程となるだろう。しかし私は信じていたい「変われる」と言い残した彼等の想いを。きっとスタリ・モストは両民族の明日に架ける橋に違いない。橋に集まった旅人達のボルテージが最高潮に達した時、ダイバーの足が橋から外れた。

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