旧ユーゴスラビアを旅する完全版+ボスニアヘルツェゴビナ序章

さて、旧ユーゴスラビア5か国目ボスニアヘルツェゴビナの紹介をしよう。ボスニアヘルツェゴビナは地図を見ると一目瞭然、バルカン半島としても旧ユーゴスラビアとしても中心となる位置にある。こうした事から古くから此処は文明の十字路として機能してきた。また歴史的変遷としてオスマントルコオーストリア=ハンガリー帝国どちらの支配も受けてきた地域でもある。オスマントルコ時代は宗教的には寛容な政策が取られており、税金さえ払えばどんな宗教も認められた。また当時スペインで行われていたユダヤ人に対する追放運動で行き場を失ったユダヤ人の受け入れも行っていた。

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この様な歴史からボスニアヘルツェゴビナには東方正教セルビア人、カソリッククロアチア人、オスマントルコ以来モスリムとなったボシュニャク人、それにユダヤ人が共に協調し合い生活を送るコスモポリタンとして繁栄した。この様な文化だから、互いの宗教を乗り越えての結婚も多く、血が混ざりあった結果、最早○○人と分別する事が出来ず、ユーゴスラビア人、またはボスニアヘルツェゴビナ人としか言い様の無い人々も多かった。この様に異なる宗教同士が協調し生活出来ている事が、世界の祭典であるオリンピックを行う場所に相応しいとされ、ボスニアヘルツェゴビナの首都サラエボ1984年、共産圏初のオリンピック開催地に認定された。

しかしその7年後、スロベニアクロアチアマケドニアと続いたユーゴスラビア独立運動、それにボスニアヘルツェゴビナも続いたところ、この今までの協調が嘘の様な血みどろの内戦へと発展していった。それは血が濃く混ざりあっているからこそ、余計残酷な戦いになった。身内同士の戦いであり、この紛争により離ればなれとなった家族も多い。

また、先に述べた通りクロアチア人、セルビア人、ボシュニャク人、この宗教の違う三つの民族が混じり合い生活していた場所だから、他の国とは違い三つ巴の凄惨な戦いの現場となってしまった。

内戦当初は、最大派閥であったセルビア人が独立してしまうと形成が逆転してしまう事から独立を反対し、独立を望むクロアチア人とボシュニャク人との間で紛争が起こった。セルビア人側には本国であり連邦の中心でもあるセルビアが軍事介入しているので圧倒的な武力で他勢力を圧倒していた。事態が膠着状態に入るとセルビアクロアチア側が事態の解決に向けてボスニアヘルツェゴビナの分割案を協議するに至るが、これはボシュニャク人を全く無視しており、それに激怒したボシュニャク人は今まで手を組んできたクロアチア人とも戦う事となり、紛争は完全に三つ巴状態に陥ってしまった。

事態は結局ユーゴスラビアだけでは解決の見通しが着かず、欧米の介入するところとなる。アメリカが主導してクロアチア人とボシュニャク人の間に立ち、再び同盟を結ばせ、NATOセルビアから軍事援助を受け圧倒的な軍事力を持つボスニア内部のセルビア人勢力を攻撃、弱体化したところで漸く停戦合意が叶う事となった。

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現在ボスニアヘルツェゴビナは、ボシュニャク人、クロアチア人からなるボスニアヘルツェゴビナとその内部にスルプスカ共和国と言うセルビア人の自治国を含有する形で成り立っている。両者はひとつの連邦に所属するも、貨幣も言語も文字も別で、旅人は自由に行き来できても彼等同士は彼等にしか解らない境界線を決して越える事無く現在も暮らしている。