旧ユーゴスラビアを旅する完全版+クロアチア編序章

モンテネグロのコトルから車で約3時間、クロアチアの国境を越えた先にドブロブニクがある。それでは旧ユーゴスラビアの4か国目クロアチアの概要を説明しよう。

クロアチア人も南スラブ人である事は他のユーゴスラビア諸国と同様だが、立地的に北西に位置したクロアチアフランク王国、続いてオーストリア=ハンガリー帝国とカソリックの国々に支配されてきた歴史から、東方正教では無くカソリック信仰が強い民族である。

イメージ 1


セルビア人の民族主義者がオーストリアの皇太子を暗殺し、その報復にオーストリアセルビアに侵攻、更にそれらの同盟国が各々の国を守る為参戦した結果第一次世界大戦に発展してしまう。

結果枢軸国のオーストリアは敗北。長い繁栄を極めたオーストリア=ハンガリー帝国は滅亡した。クロアチアはその結果帝国の支配から脱却し、セルビアスロベニアと共に南スラブ人の国ユーゴスラビア王国を建国する。

しかしユーゴスラビア王国は、それまで独立を勝ち取っていたユーゴスラビア最大の民族であるセルビア人のセルビア人による、セルビア人の為の王国だった。これに反発し独立を目指すクロアチア。それに対抗するセルビア。事態は徐々に殺し合いの様相を帯びてきた。そんな頃ドイツではヒトラーナチスを率いてバルカン半島にも牙を向けた。セルビアの王は追放され、クロアチアナチスの傀儡国家として独立する。其処に設けられた収容所。其処で多くのユダヤ人が命を落とす結果となったが、其処では多くのセルビア人も処刑されたと言う。(つまりホロコーストのドサクサに紛れて怨み辛みのあるセルビア人もやっつけてしまったと言う事。)

しかしそんなユーゴスラビアナチスの手から解放させた人物が登場する。共産党パルチザンの指導者チトーだ。彼はソビエトの手を借りずユーゴスラビアを解放、新生ユーゴスラビアを建国する。もう関係の修復不可能とさえ思われたクロアチアセルビア呉越同舟させ安定した平和な時代を築いた事は称賛に値する。しかし彼の死、東欧に吹き荒れた民主化の嵐と共にクロアチアセルビア共に偏狭的な民族主義者が台頭。

イメージ 2


クロアチアが独立を宣言すると、セルビアクロアチア領内に暮らすセルビア人保護を名目に軍事介入した。セルビアユーゴスラビア連邦の中心国なので連邦軍を自由に扱える。一方クロアチアは構成国に過ぎないので軍事力等警察に毛が生えた様なもの。戦力差はセルビアが圧倒していた。

こうして圧倒的戦力でクロアチアに攻め込んだセルビアクロアチア領内のセルビア人居住区をクライナ・セルビア人共和国として独立させる。その領域はクロアチアの領土の3分の1にも達したからクロアチアも黙っていられない。これよりクロアチアセルビアは泥沼の紛争状態に陥った。

その時ドブロブニクはと言えば、ドブロブニクにはセルビア人が住んでいなかった事からクロアチアドブロブニクでは紛争が起こらないと判断。下手に刺激されぬ様にクロアチア政府はドブロブニクから武器を撤収させていた。しかし結果としてドブロブニクセルビアに包囲され攻撃を受けた。理由はセルビアクロアチアに独立されると海の無い内陸国になってしまう。そこで海岸沿いの街ドブロブニクの奪取を図ったのだ。こうなると最早セルビア人の安全確保と言う大義名分は失われ、侵略戦争の様相まで孕んできた。

こうした末に国連等の仲介により一時期膠着状態を見せるも、国連が部隊を引き揚げようとした間隙を縫ってクロアチアセルビア人居住区を攻撃、この電撃作戦によりクロアチア領内のセルビア人の殆どは殺戮されるか追放され、クロアチアは完全独立を果たした。

しかし一方追放されたセルビア人は難民となり両国は再び消えぬ凝りを後世に残す事となった。現在では両国は国交を回復しているものの、国民同士の感情の回復には至っていない。ユーゴスラビアからの独立紛争後、セルビアと負の感情を残す国々は多いが、以前の歴史的経緯も加わりセルビアクロアチアの関係が一番深刻なものを抱えていると言って良い。旅人として両国を跨いで旅する者は、この歴史を踏まえ隣の国の話題は極力控える様に心がけたい。