旧ユーゴスラビアを旅する完全版+コソボ・プリシュティナ

 プリズレンからコソボの首都プリシュティナに移動した。プリシュティナは小さな首都だが、それでも地方都市のプリズレンより遥かに大きい。ちょっとソワソワする。昔は高層ビルが聳える大都市の光景も好きだっったが、最近は地方都市の方が心が和む。

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 バスターミナルからビルが建ち並ぶ大通りを歩けば、ビル一面を使ってアメリカの元大統領ビル・クリントンの肖像が、街角にもビル・クリントン銅像が。これはコソボ紛争の時アメリカがセルビア空爆を行った事で紛争が終結した謝意を表したものだ。他にも日本を始めコソボの独立を承認してくれた国々に対するする謝意を街の至るところで見つける事が出来る。

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 大通りに建つ一際立派な教会はマザー・テレサに捧げられたものだ。彼女は現在のマケドニアに生まれ育ったが、アルバニア人なので、アルバニア人の多いコソボ人にとって彼女は英雄だ。

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 暫く新市街を歩けば道は歩行者天国へと続く。此処が街の中心。やはり漏れなくスカンデルベグの銅像が建つ。其処から先が旧市街。そこで今日予約した宿を探すがいっこうに見から無い。アルバニアのティラナの時も同じだったが、アルバニア人の住所設定が適当なのか、明らかに指示された住所は全く関係無いらしい。電話もかけたがセルビアに繋がってしまい、未だ国際的に完全に承認されていないコソボの立ち位置の微妙な関係を思い知らされる。

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 「どうしたの?」寄ってきた悪戯っ子に解る訳無いが聞いてみたら、すぐ近くにあった空き家がそうだとからかわれ、悪戯っ子が空き家のドアを叩く。

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 そんな事をしている内に隣のアパートの窓が?開いて

「お前ら何やってんだ!其処は空き家だぞ!」

 って怒られた。私も同罪だと思って静粛にしている私には優しくどうした?と声をかけてくれるその男性。それでもしどろもどろな私に、最初に私が道を尋ねた商店のオジサンが、見ちゃ居られないと言う感じで事の顛末を語ってくれた。すると即座に「ちょっと待ってて。」と言い残すと、寝起きだった様なのにわざわざ着替えて飼い犬を連れ出て来てくれた。そして私の代わりに電話をかけてくれる。今度は宿主が出た。彼が宿の正確な場所を聞き、其処まで送ってくれた。此にて一件落着。コソボ流の電話のかけ方も覚えこれで完璧。

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 私が礼を言うと男性は困っている人がいれば助けるのは当たり前の事だと言う。イスラームの人は皆口を揃えて言う言葉だ。でも私がもし寝起きに外が騒々しいと窓を開け、その時困っている言葉も通じそうに無い外国人を見かけたとして、果たして着替えて迄助けに行くだろうか?彼等の親切さには本当に敵わないと思う。

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宿に荷物を下ろしモスクが建ち並ぶ旧市街を歩けば、青空市場に迷い出た。私が日本人と解ると彼方此方から「おめでとう!」と声がかかった。私が怪訝な顔をしていると、どうやらワールドカップで日本がコロンビアに勝った様だ。コロンビアはサッカーの強豪、そのチームに勝った事は嬉しいが、それ以上に、そう声をかけてくれるコソボの人々の気持ちが嬉しかった。

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その先で見つけたお肉屋さんで、サラエボ滞在時に味をしめたケバブチチと言う料理を作って貰う。此処ではどうやら違う通称の様だが、バルカン半島全域で食べられるオスマントルコの料理だ。オスマン風ソーセージといったところだが、オスマントルコイスラームなので豚肉は決して使わない。お肉屋さんは現地語とドイツ語しか話せない。歴史上の影響か、ドイツ語が結構通用する様だ。私がドイツ語はグーテンダークとダンケシェンしか解らないと言うとダンケシェンは素敵な言葉だ。それだけ知ってれば十分だよ!と満面の笑顔。それにしてもこの笑顔、惚れてまうじゃないか!

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オジサンの焼いてくれたケバブチチを街を見下ろす丘の上で食べ、プリシュティナの細かい見所を巡る。

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 一国の首都でこれだけ可愛らしい駅を初めて見た。

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 建国のモニュメントはボロボロに落書きされていた。

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 翌日の日程を調べにバスターミナルに赴いたついでに郊外にある教会へと向かった。その教会はプリズレンで見たリェヴィシャの生神女教会と共に世界遺産となった教会のひとつだ。破壊され機能を停止したリェヴィシャの生神女教会と違い、グラアチャニツァ修道院は生きた修道院だった。鉄条網を施された姿は同様だが、此処一帯はセルビア人集落として正教会の信者達が暮らす場所だから。

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紛争が起こる以前、異民族として小競り合いはあったかも知れないが、両者は共に暮らしていた。しかし、ユーゴスラビアが崩壊し、其々の国の政治家が民族意識を鼓舞し要らぬ不安を煽り戦う事を煽り立てた。その結果がこのザマだ。民族浄化と言う人権侵害の極致とも言える行いを互いに行い、自分の領土から異民族の抹殺を図った。その結果コソボには殆どセルビア人が暮らす事が出来なくなったが、それでもごく少数がこうしたコミュニティを築いて暮らしている。

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誰だって生まれ育った故郷を離れたくない。それが異国の強制だとすれば尚更の事。だけど、凄惨な方法で殺し合った敵に囲まれながら暮らすとはいったいどんな事なのだろう?日本に暮らす私にとってそれは 想像すら出来ない事だ。更にその凄惨な戦いは、今正に私が見回している人々の間で繰り広げられたと言う事が全く信じられない。あのお肉屋さんの満面の笑顔、此処セルビア人集落の人々だって全然普通の人々だ。それを一瞬にして血みどろの地獄絵図に変えてしまうのが戦争と言うものなのだろう。

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ビザンティン様式の複雑な曲線美が印象的な教会を後にして、 帰りのバスを待ったが中々来なかった。色々悶々とする中、じっと待っているのが辛くなった。こんな時は歩くに限る。プリシュティナ迄はたったの10キロちょっと。考えても答など出る分けないのは百も承知していた。でも歩かずには要られなかった。途中で乗るべきバスに追い越される。観光客等来る訳無い小道で子供達が私を見て硬直している。いつしか考える素材も無くなり体力も尽き果て、無心に近づく頃プリシュティナの街が見えてきた。そんな私を見届けるかの様に太陽がプリシュティナの街に沈んでいった。

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 そんなプリシュティナの街で再び目に入ってくるのはクリントン肖像画…。アメリカによる空爆で確かに紛争は集結しコソボの独立(セルビアの承認を得ない強引な形ではあるけれど…)は叶った。しかしそれが暴力であるが故に被害を受けたセルビアの怨念は凄まじく、我々は永遠にコソボの独立を認めないとまで声明をだしているから、ある意味問題の根を深くしてしまったとも言える。

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 一方このアメリカはどうしてこの紛争に荷担したのか?勿論目論見があったからだ。旧共産圏から親米、親西側の国を作る。これはコソボを見る限り成功したと言える。その一方こうした手法は、仮想敵国であるロシアも触発してしまったと言える。

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 ロシアはウクライナのクリミアを併合、更にジョージア内の親ロシア勢力である南オセチアアブハジアを扇動、介入しジョージア内にロシアの傀儡国家を成立させた。西側の非難の声に対し、ロシアのプーチンは「貴方達がコソボで行った事と同じ事をしたまでだ。」と返している。

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 つまり、独立を願う小さな国々の思惑を利用して、二つの巨大な勢力を持つ国が互いの傀儡となる国を作り上げている。二つの巨大な国々の狭間で小さな国々が争い合い血が流される。夕陽を眺めながら何かとてもやるせない想いを感じた。