旧ユーゴスラビアを旅する完全版+アルバニア・ベラト編

 さてアルバニアとはいったいどんな国なのだろう?今回旅する中で一番謎多き国でもある。アルバニアは旧ユーゴスラビア連邦の国では無い。旧ユーゴスラビアは南スラブ民族主体の国だったが、アルバニアは名の通りアルバニア人の国家だ。辿ってきた歴史はマケドニア等と同様初期はビザンティン帝国ブルガリア帝国の支配を受け、後にはオスマントルコの領土となる。

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(ベラト・マンガレム地区)
 この国が独特な歴史を辿るのは第二次世界大戦後だ。東欧諸国同様共産圏に属したのは言うまでもないが、周囲の国よりずっとソ連の追随国家だったと言える。そのソ連が国家指針を改めスターリン批判が起きると、今度はソ連を敵視。その後中国に近寄るも中国も文化大革命を終え、解放路線に転じると中国とも絶縁。勿論周囲の国々とも絶縁し鎖国状態に入る。国内では無神論を提唱宗教を否定。と今世紀の国としてはあり得ない国家運営をする。

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(ベラト・マンガレム地区)
 しかしその独裁者が失脚し、ソ連崩壊するとこの国にもやっと民主化が訪れるが、今まで市場経済を経験してこなかった為資本主義社会に免疫が無く、国民の殆どがネズミ講に引っ掛かって国家破綻すると言うとんでもない事に。今ではその傷も少しづつ癒え、旅好きで行くところに行き尽くした様なヨーロッパの旅人達の間で密かにブームとなっているらしい。

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(ベラト・ゴリツァ地区)
 そんなアルバニア世界遺産ベラトの街を訪問した。ベラトはオスマントルコ時代の影響を強く残した街で、川を挟んで両側の山の斜面を埋め尽くす様に民家が並び建つ。その民家には非常に窓が多いと言う特徴がある事から千の窓を持つ街と言うニックネームがある。

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(坂を登って城塞へ)
 川を挟んだ二つの集落はそれぞれキリスト教地区のゴリツァ地区とイスラーム地区のマンガレム地区に別れていた様だが、常に反目していた訳ではなさそうだ。余りに密集し過ぎていて、路地を探すのも大変。まるでひとつの要塞の様だ。

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(城塞内部の街)
 また今まで訪れた街と同じ様にベラトにも山の上に城塞がある。しかし此処は王の為の城塞では無く、城塞都市として機能していた様で、城壁の中に一般の住居が建ち並び、それは今日も変わり無い。多分戦いに明け暮れていた時代には城壁の中で人々は暮らしていたのだろうが、平和な時代が来て人口が増えると平地にも人が暮らし始めたのだろう。今となっては城壁の中はメインストリートからも離れ山の上に位置する事から、ひなびた風情を残している。

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(三位一体教会)
 時代の変遷がそうさせたのか?或いは共存出来ていたのかは知らないが、場内にはモスクの跡もあり教会も残されている。現代のアルバニア人オスマントルコ以降殆どイスラームとなったが、此処では教会の保存状態が良かった。城の中心らしき遺跡が残るスペースから、ふと城壁の向こうに出ると小さな三位一体教会があった。目の前に広大に広がるアルバニアの原野をバックに教会が良く映える。オフリド湖畔に佇むカネオ教会と言い、この教会と言い教会を建てた人物はセンスが良い。

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(城塞からの眺め)
 城壁内を南端まで歩けばその昔は見張り台だったろう場所が今では絶好の見晴台になっている。直下にはイスラーム街のマンガレム地区(真下に位置するので見る事は出来ない。)川を隔てて対面の山肌にキリスト教地区のゴリツァ地区が一望出来る。

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(ゴリツァ地区からマンガレム地区を眺める)
 城から降りて暫く街を散策しているとやがて日が暮れた。旧市街のライトアップが始まる。先述した理由もあってアルバニアは欧州一の最貧国と言われる。確かに欧州にあってまるでアジアを歩いている様な、所得が低いだろう事は犇々と伝わってくる。中南米とか、市場経済社会が先立つ国だと、こう経済状態が悪化してくるとそれに伴い街の治安が悪化するものだが、此処ではそんな雰囲気を感じる事も無い。イスラームの街は何処も貧しくとも穏やかだ。

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(マンガレム地区の夜景)
 さてホテルに戻ると私はスマホのBooking.comを開くと頭を抱え込んでしまった。と言うのも昼にWi-Fiが使えたタイミングで明日訪れるジロカストラの宿を予約したのだが、私としては珍しく続いて訪れようと思っていたティラナの宿も予約してしまったのだ。しかしジロカストラはアルバニアの南端近く。その向こうはギリシャ。ネットとかで検索を続けていると国境からそれほど離れていない場所にメテオラがある。メテオラは嘗て行きたかったけど行けなかった場所。悩みに悩んで私は二日目の予約をキャンセルした。こんな予約に限ってキャンセル料は100%取られてしまうが、航空券買って出直すと思えば安いものだ。