旧ユーゴスラビアを旅する完全版+マケドニア編1

 ブルガリアを後にしてマケドニアへ向かった。今回の旅の一番の目的は旧ユーゴスラビアの旅であるから此処からが本番とも言える。まず最初に訪れるマケドニアとはいったいどんな歴史を経てきたのか?

 先ず最初に世界史の授業では必ず登場する古代マケドニアアレキサンダー大王とは歴史的にも民族的にも全く繋がりが無いと言う事。現代マケドニア人はそれ以降に移動してきた南スラブ人による国家であり、だからこそ南スラブ人の連邦であるユーゴスラビア連邦の構成国のひとつとなった。しかし南スラブ人のマケドニアブルガリアセルビア等昔から王国を築き上げてきた様な歴史が無い。ブルガリア帝国ビザンティン帝国セルビア王国、そしてオスマントルコと支配者はクルクルと入れ替わり、そんな中それらの勢力の狭間に取り残された人々がいつしかひとつの民族意識を持つ様になり、ユーゴスラビア連邦が出来た時、ひとつの国として扱われた。ザックリ話すとそんな感じだ。

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 そして来るユーゴスラビア解体の時、各国が激しい戦闘で血を流し独立を勝ち取っていく中、マケドニアは自国領に配備されている武器を全て連邦の中心となっているセルビアに明け渡す事を条件に無血で独立を勝ち取る事に成功している。それはとても称賛に値する独立だが、どうしてそんな事が可能だったのか?

 これは穿った見方をすれば、連邦にとってマケドニアは足手まといだったからとも言える。ユーゴスラビア紛争の一番の原因は勿論民族問題だが、遠因として経済問題がある。南北問題と言う言葉があったが、ユーゴスラビア内でも南北問題はあてはまり、北側のスロベニアクロアチアユーゴスラビア連邦にとって稼ぎ頭だが、南部のマケドニアは貧しく、どうしても連邦は援助しなくてはならない。そんな具合で訪れた91年。自力で独立出来る程の財力のあるスロベニアクロアチアが相次いで独立を宣言。そんな中独立に不安を感じていたと感じられたマケドニアも独立を宣言。

 いくら連邦政府セルビアだとしても一気に三つの国に独立を宣言されたら押さえ込むにも手が折れると言うもの。この際稼ぎ頭のスロベニアクロアチアは何とか引き留めたいが、いつも足を引っ張られるマケドニアが独立したいと言うのなら、どうぞ御勝手に!と言ったところだろうか?おまけにクロアチアとかといつドンパチが始まるか解らないって時に連邦として与えていた武器全部返してくれると言うんだから願っても叶わない事。こうした理由が手伝ってクロアチアボスニアヘルツェゴビナが血みどろの内戦に陥る中その無名さも手伝っていつのまにか独立していたのがマケドニアと言う国だ。ある意味貧しさが効を奏したと言えるかもしれない。

 しかしひょんな事から大問題を引き起こす事となる。マケドニアと言う国名と国旗、国の至るところにアレキサンダー大王の銅像や地名をつけている事でギリシャブルガリアから強烈な反感を買ったのだ。

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(マケドニアの旧国旗)
現在のマケドニアと名乗る貴方達は、南スラブ人であり、旧マケドニアとはなんら関係が無いのだから、嘗てのマケドニアと混同する様な名称や国旗を使ったり、アレキサンダー大王の名を使うのは許されない。マケドニア地方はギリシャにも存在し、アレキサンダー大王の出身地は其処にある。紛らわしい事をするな!そして嘗てアレキサンダー大王はあっという間に広大な国々を支配下に置いた人物でもあるので彼の作った国名を使う事は周辺諸国にとって威嚇的である。もし変更しないのならEUを始め様々な国際機関に参加する事を妨害してやる!。と言うのがギリシャの言い分なのである。一方、現マケドニアとしては、そんな事言われても、ユーゴスラビア時代から、自分達はずっとマケドニアって呼ばれてきたのだから、今さら名前変えろと言われても…ってところだろう。

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(マケドニア現国旗)
 話し合いはその後も停滞、渋々マケドニアが折れ国旗も変更、国名もマケドニアユーゴスラビアと言う長たらしい名前に変えたのだけど未々ほとぼりは収まらない。隣国関係とは本当難しい。

マケドニアの国旗問題は、ひょんな事から更にトラブルに巻き込まれる。ギリシャの反感を買った事から、古代マケドニアの国旗を使用した旧デザインから、それを象徴としたデザインに変えたのだが、
サッカーの試合で遠目にそれを見た韓国人が旭日旗と混同し抗議されると言う事件が発生した。これはもう完璧なトバッチリである。