旧ユーゴスラビアを旅する完全版+ルーマニア編4

 ブラショフを後にしてルーマニアの首都ブカレストに戻った。ブカレストにはこれと言って目を見張る様な歴史的建造物は残されていない。昔は東欧のパリと呼ばれるくらい美しい街だったと言われるが、チャウチェスクの独裁時代、彼が昔ながらの町並みを破壊して共産党独特の大味な建築をボコボコ建ててしまったからだと言う。にあるにも関わらず私がこの街に時間を割いたのは、そんなチャウチェスクの足跡を見たかったからだ。

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(ブカレストの街並み)
 学生時代と言う一番多感な時代にソ連崩壊、東西ドイツ統一等の大きな歴史的変遷を体験した私にとって、東欧を旅するとは、その舞台を訪れると言う事でもあった。統一直後に訪れた旧東ドイツ。その後随分時間を置いたが、プラハの春の舞台となったプラハベルリンの壁崩壊の序曲ともなった事件が起こったハンガリーオーストリアの国境の街ショプロン。そして今回の主目的であるユーゴスラビアの崩壊も、この一連の歴史の胎動の中で起こった事だ。

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(ブカレストの街並み)
 そんな歴史の流れの中でチャウチェスク暗殺事件は実に衝撃的な事件だった。あの時代、民主化の流れの中で、中国の天安門事件共産主義の弾圧の中で数々の暴動が悲劇と言う結末で終わっていく中、唯一ルーマニア革命だけが革命を起こした側が共産党を打ち破った例となり、それはフランスの民主革命になぞられて語られた。民主革命によりマリー・アントワネットはギロチンにより処刑されたが、チャウチェスクもまた瞬く間に処刑された。残された残党達の戦意を削ぐ為にチャウチェスクの遺体は全世界に報道される事となったが、今思ってもエグい事すると思う。

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(ブカレストの街並み)
 そんなブカレストの街を散策するべく治安の悪いと言う北駅から地下鉄に乗り込み街の中心に向かった。どうせボロい地下鉄だろうと思っていたが、共産圏はこう言うところにはお金を使うので、東京の古びた地下鉄構内より清々しく感じる。

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(ブカレスト地下鉄構内)
 街自体は人通りは多く賑やかで活気がある。でも景観はどうもチグハグな様相を感じる街だった。昔はパリに通ずる趣がある旧市街が広がっていたのかもしれない。街の外れには第一次世界大戦の勝利を祝ってまるっきりパリの凱旋門が作られた。きっとチャウチェスクは東欧のパリと煽てられ、彼の誇大妄想は爆発し、古き街並みを破壊して、其処に彼なりのパリを作り上げる気だったのだろう。

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(国民の館とチャウチェスク風シャンゼリゼ)
 彼が国民が飢える中築いたアメリカのペンタゴンに次ぐ大きさだと言う官庁国民の家からは、パリのシャンゼリゼに負けない道をモットーにして作られた大通りが延びている。しかし夢(妄想)も半ばで倒れたものだから、街には残された数少ない昔ながらの建物と、彼が残した共産圏独特の大味な建築と、現代の雑然とした建築がチグハグに同居している。

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(国民の館)
 そんな彼が残した国民の館に向かった。流石にデカイ。そして武骨。片側三車線の通りを隔てて24ミリレンズで構えても構図に収まりきらない。館内はごく一部をツアー形式で見学出来る。全てが最高の素材で出来ていると言われるが、あまり趣味が良いとは言えない豪華な内装の部屋を見学していく。

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城にしろ宮殿にしろ、いつも思う事だが、どうしてお金持ちの家の内装は何処も其処も皆似たようなコテコテになるのだろう?一件くらい外装は凄くても実はゴミ屋敷だったとかヲタク部屋だったとかだったりすれば少しは親近感を感じるものだが…。金持ちになると発想が均一化してしまうのだろうか?

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 そんなこんなで辟易としてきた頃館のベランダに案内された。そこからは彼が築いたシャンゼリゼが一直線に延び、彼が築こうとした東欧のパリの風景が広がっていた。彼はこのベランダから国民に演説を行う事になっていた。しかし彼はその完成を見る事なくこの世を去った。このベランダから唯一演説を行ったのは、彼の死後此処に招待されたマイケル・ジャクソンだったと言う。当時の彼の人気は凄まじく、当然此処ブカレストでも彼を見ようと多くのファンが国民の館まで押し寄せた。そうとなったらマイケルもファンサービスをしたくなる。彼はベランダに出ると大歓声の観客に向かってこう挨拶したと言う。

「こんにちは!ブダペストの皆さん!」

…やっちゃいましたね、マイケル君。

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(マイケルと同じ目線で)
 Bucharest Budapest 往きのドーハの乗り継ぎ時に私もブカレストブダペスト間違うところだったので、マイケルの間違いに大きく共感してしまうが…関係者にとっては衝撃的事件だっただろう。

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 国民の館を後にして地下鉄に乗って国立農村博物館に向かった。此処にはルーマニア各地で見られた木造建築が移築され展示されている。

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木造の教会等も残されており、ヨーロッパと言えば石造りと言う概念を払拭してくれるし、木造建築と言うと我々日本人にとって親近感を感じる。ヨーロッパにもこうした木造建築文化があったのかと感心すると同時に、その広大な敷地と規模に、建築に興味が無くとも家族連れで散策する人も多く、以外に楽しめる博物館であった。

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(革命広場)
 再び市内中心部まで戻り革命広場までやってきた。此処には共産党本部が置かれ、チャウチェスクが最後の演説を行い、そして革命の際には多くの犠牲者が出た、ルーマニア革命の中心地とも言える。暮れていく一日の時間の流れの中でひとしきり、あの時代に流れた激流の時の流れを思い返した。

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(このバスが今宵の寝床)
 そして暮れきったらおたおたしてはいられない。今日はブカレストに泊まる事無く次の訪問国ブルガリアに向けて夜行バスに乗らねばならない。到着した際前もって立地とバスの時間を確かめ荷物も預けてきたので迷う心配は無かったが、誤算だったのは国際バスの発着するバスターミナルなら、なんか安い食事が出来るだろうと思っていたら、夜行便が出る頃には周囲の全ての店が閉まってしまい何も買えなかった事。バスもミニバスで乗客も私含めて4名程。この一ヶ月の旅の中でも一番寂しい国際線の旅だった。もしかしてルーマニアブルガリアってそんなに仲が悪いのか?