旧ユーゴスラビアを旅する完全版+ルーマニア編3

 連泊の予定にした事で本題のドラキュラ城は明日向かう事にしたので到着日である今日は旧市街を散策する。ヨーロッパなら何処でも見かけると言えばそうなってしまうが、オレンジの屋根瓦、石畳の道を見るとヨーロッパに来た事をつくづく感じる。

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 ヨーロッパの国々では街の中心には大抵大聖堂(カテドラル)があるが、ブラショフにも黒の教会と呼ばれる大聖堂がある。実際に漆黒の教会と言う訳では無く、昔オーストリア=ハンガリー帝国に攻め込まれた時に焼き討ちに遭った事から煤けてしまい、そう呼ばれる様になったと言われる。

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(黒の教会)
 私は最初この大聖堂を見た時僅かな違和感を感じた。ルーマニアであれば正教会が多数派の筈だが、このカテドラルのデザインは正教会らしくない。残念な事に私はこの大聖堂には何故か入場していない。入場していればその時気づいた筈なのだ。正教なら教会の最深部はイコノスタシスと呼ばれる壁と言うか巨大な衝立が必ず有り、その奥には聖職者しか入れなくなっているからだ。

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(街の中心市庁舎の広場)
 後々調べて見るとやはりこの教会は正教会の大聖堂では無く、なんとプロテスタントの一派ルター派の教会であると言う。なんでまた此処にプロテスタントの聖堂がと調べてみれば、ブラショフはルーマニア人の街では無く此処に入植したドイツ人が築いた街だと言う。ヨーロッパの歴史は複雑で本当に一筋縄ではいかない。でも最初に抱いた違和感が晴れてスッキリした気持ちになった。

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 翌日バスに乗ってドラキュラ城のあるブランと言う小さな村に向かった。城の正式名称はブラン城でドラキュラ城では無いし、ドラキュラ伯爵はブラム・ストーカーと言う小説家が書いた小説上の怪物で実在する人物では無い。ただ、そのモデルとなった人物がいて、その小説の中でドラキュラ伯爵が暮らしていたと設定されたのがブラン城と言う訳だ。だからドラキュラ伯爵のモデルとなったウラド3世は実際にこの城で暮らした事実も無い。ただ彼の祖父は暮らしていた事があるらしい。

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 では実際ドラキュラのモデルとされたウラド3世とはどんな男だったのか?かなり狂暴な性格であった事は確かだったが、当時ルーマニアオスマントルコと争いが激しかった時代でもあり、そう言う性格でなくては王として成り立たなかったとも言える。実際は捕虜として捉えた敵を残忍な手法で拷問し、見せしめを行い、その恐怖から敵の先頭意欲を削ごうとする卑怯で残忍な男だったと言う。その手口が吸血鬼と言う発想となって小説化されたのかもしれない。

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(ドラキュラのモデルとなったウラド3世)
 城の門前にはルーマニア番お化け屋敷を始めドラキュラグッズを並べる土産屋が建ち並び、遠足に来たチビッコギャング達で賑わっていた。

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城の見学を終えるとネットの情報で知った見晴らしの良い丘へ向かった。そこはアホか?と思う程の急坂をひとしきり登った先にあった。十字架のバックにドラキュラ城を眺められるそのポイントは、観光客でごった返す城内よりも雰囲気に浸る事が出来た。帰りは余りに急なその坂を、どうせ途中ですっ転んで泥だらけになるの確定だったので、最初から諦めて滑り台状態で滑り降りた。

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 そろそろ帰りのバスもあるから戻ろうとすれば、向こうからスーパーハイテンションな旅人がやってきて

「君は私の写真を撮らなくてはいけないんだ!」

 と言ってカメラを強制的に私に押し付ける。キャラ的に嫌とは言えない人懐っこさのあるタイプ。私は彼の指示するまま写真を撮ってあげると

「君はこの写真だけで満足して帰るのかい?その山少し登ったところでこんな写真が撮れると言うのに!」

 と今撮って来た写真を見せてあげた。彼は時間を気にしていたが、私が5分、少なくとも10分あれば行けると言うとポーランドから来たと言う彼は飛ぶ様に其処へと向かっていった。

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 私がバス停に戻ると帰りのバスまで後10分以上時間があった。彼は時間を気にしていた様だが、この村で時間を気にする事は帰りのバスの時間ぐらいだ。これなら彼もバスに間に合うだろうと思っていたのだが、結局彼は戻って来なかった。まさかあの急坂ですっ転んで脳震盪でも起こしていないと良いのだが…。

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 ブラショフに戻り今度はブラショフを一望出来ると言うトゥンパ山を登った。そう!登ったのだ。普通の旅人ならロープーウェイを使って向かうのが一般的、でも私は登れるのなら極力自分の足で登りたくなる。体力的にも時間的にもロスが激しいのは承知の上なんだけど辞められない。

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途中時おり通り過ぎるロープウェイに追い抜かれつつやっとの事で頂上に到着、ブラショフの絶景を堪能する。目前にはヨーロッパらしいオレンジ色の屋根瓦で出来た絨毯が広がっている。さい先の良い旅になった。

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 下界へと降りてブラショフの散策を続ける。奥へと向かえばスケイ門があった。昔ブラショフは入植したドイツ人しか暮らす事が出来ず、ローカルの筈のルーマニア人は門外に暮らしていたと言う。

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門外に出ると一段街の景色は素朴になると言うか、悪く言うと粗末になる。これは昔なら貧富の差なのかもしれないが、現代は観光に必要なメインとなるドイツ人街の部分に修復が集中した事もあると思う。

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(スケイ門)
 そんな門外で一番目を引くのが聖ニコラエ教会だ。此方は列記としたルーマニア正教の教会。そのスタイルはカソリックプロテスタントの教会にも繋がるスタイルであり、東方正教会独特のスタイルでは無いが、このセルビア正教会もこの様なスタイルで建立される事が多いから此処が特別な訳では無いから違和感を持つには及ばない。

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 写真を見て一目瞭然この後激しく一雨降って散策を一時余儀なく中断させられた。ヨーロッパの天候はクルクルと変わり、空がピーカンであってもザーザーと雨が降ったりする。暑くなると約束の様に午後に一発夕立が降るみたいな天気が多々あったが、逆に日本の様に一日雨降りで何も出来ないなんて日が31日滞在して1日すら無かった事は良い意味で驚きだった。日本人的に1ヶ月も滞在すれば1日2日雨降って行動不可な日が当然あるから、その日を旅の休日にしようと目論んでいたので、嬉しい悲鳴をあげながら老体にむち打ち旅を決行する事となった。そんな私に夕立が降った瞬間だけが纏まった休み時間になるのだから、ある意味夕立は私のペースメーカーとして機能してくれたのかもしれない。