ブータン旅行記9 西岡チョルテン

ゾンダカ・ゴンパを見終わって豊かな棚田風景の道を下ると其処に西岡チョルテン(仏塔)があった。何故此処に日本人の名が?私は此処でまたひとつ熱い男の生き様を知る事となる。

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 未だ日本が東京オリンピックに沸く60年代、農業指導者を派遣してほしいとの要請がブータンから日本に届いた。その白羽の矢が立った男こそ西岡京治だ。

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 初っぱなは当時農業指導を担当していたインドの指導者達から邪魔物扱いされ散々だったらしい。インド人指導者達は、山がちで痩せた土地で先祖代々続く農法で細々と農業を勤しむブータン農家に上から目線で教えを説いては反感を買っていた。

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 そこで西岡は小さな試験農場を貰い、現地の寒暖差を考慮して大根を育てた。こうした結果が積み重なって、彼の評判は上がり、やがて村人達が自ら教えて欲しいと言い寄って来る様になった。

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(現在チョルテン脇は種子開発センターになっている。)

 政府からも大規模な実験農場の土地をパロに与えられ、そして西岡が教えた水田作りはパロの収穫を40%も上げる結果となった。最初2年だった任期は次々と更新されていった。西岡もそれを望んでいた。

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(ゾンダカ・ゴンパから西岡実験農場のあるポンデ谷を眺める。)

 何故なら西岡には信念があった。人を指導すると言う事は人に与える事では無い。結果でも無い。人に「そうなりたい!」と思って貰う。それが大切だと信じていたから。それは2年では足りなすぎる時間だったから。

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 こうして西岡の活躍は続いたある日、かの4代目国王から直々に僻地シェムガンの開発の要請を受ける。シェムガンでは痩せた大地を焼き畑でやり過ごし、土地は更に痩せるの繰り返しで、農民達も極貧の状態だった。

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 しかし農民達の反応は渋かった。国の指示を受けた者とは言え、ただでさえじり貧なのに先祖代々続いた農法を捨て、この男を信じ、それでダメなら全てを失ってしまう。農民達は夢の様な西岡の説得を断り続けた。それでも西岡は諦めずその説得は800回にも及んだと言う。

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 西岡は農業以外にも道を作り、橋を渡し、地域開発に没頭した。少しづつ農民達も西岡の作業を手伝ってくれる者が増えると、西岡はその中から少年達を自ら経営するパロの試験農場に留学させた。そして帰ってきた少年達は「俺達も故郷をパロの様にして見せる!」と目を輝かせながら西岡の棚田作りに参加した。こうして彼の開発作業は波に乗った。

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 彼は自分の信念に基づき決して農民達の身の丈を越えた開発はしなかった。何故なら彼等が買えない、出来ないものを与えても、自分が去ったらそれで終わりだ。だけど彼等が出来る範囲で教えたなら、それは明日に繋がるからだ。こうした彼と農民の奮闘を四代目国王は二度に渡り現地を視察し鼓舞したと言う。

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 そして5年の任期が過ぎ村を去る時が来た。広大な棚田が出来上がり定住する場所を得た農民達は、更に学校や病院も手に入れられた。皆大泣きしながら西岡を見送ったと言う。

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 こうした奮闘を称えて、四代目国王は西岡にダショーの称号を与えた。本来県知事等しか貰えない、王家の次に上の位。外国人は後にも先にも貰った事が無い栄誉ある称号だ。

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 1992年西岡はブータンで永眠した。ブータン国葬で弔われ、婦人の希望でこの地に眠っている。西岡の名を知らないブータン人はいないと言う。私が訪れた時も現地の老婆が熱心に仏塔を回ってはお祈りを捧げていた。

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(バザールで売られてる野菜も…)

 日本の援助と言えば、一歩も外に出ない腹の出た大臣が大金をばら蒔いて、その顛末さえ知らんぷり。なんてものばかりと思っていたが、こんな男もいたんだな。それが今日本とブータンを繋げている。ブータンが特別親日な国なのも、あの東北の大震災の時、最貧国でありながら、真っ先に日本に援助金を送り、若い国王夫妻が駆けつけたのも、もしかすると、生涯をブータンに捧げたこの男がいたからかもしれない。

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(食卓を彩る野菜も、西岡さんの賜物です。)

 私はブータンを訪れて、こんな高度の産地に良くこれだけ立派な棚田が拡がっているなと驚いたが、それに加えバザールに野菜が豊富に並ぶのも、一重にダショー西岡の賜物だったのかもしれない。彼がこの地でブータンの農業の父と呼ばれるのは、単なる敬称に過ぎず、彼はこの国が幸せな国ブータンと呼ばれる一役を担っていたのだ。

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(チミ・ラカンへと続く道で)

 見渡せば、広角カメラに収まりきらない程の棚田が広がっている。ダショー西岡の残した種は着実に花を咲かせ大きな大きな実になっている。