ブータン旅行記7 プナカ夜

  本日の宿はプナカからちょっと郊外の川沿いだった。夕食を済ませ一人にはもったいない程広い部屋で寛いでいると突然真っ暗闇となった。停電だ。こうした国での停電には慣れていたのでリュックから100円ショップで買った懐中電灯を手探りで取り出した。

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(ホテル・ベマ・カルポ)

 しかしそれだけでは心許ないのでフロントまで降りると従業員達も集まっている。聞けばどうやら地区毎の停電なので電気の開通の目処は解らないらしい。だとしても客の事は心配にならないのかと思ったが、どうやら部屋には停電用の電気ポッドが備え付けてあると言う。

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 早速部屋に戻りポッドを灯したが、まもなく電気が開通した。ホッとすると旅前にブータンについて調べている中で知った電気に纏わるエピソードを思い出した。

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 私の今回の旅程では組み込めなかったが、此処から更にひとつ峠を越した先にポプジカの谷と呼ばれる場所がある。ヒマラヤ山脈を越える渡り鳥オグロヅルが越冬地として飛来する事で有名な場所だ。

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(オグロヅル 写真は引用)

 そんなポプジカの村にも電気が通ると言う知らせが届いた。しかし村人は話し合った末、電化の工事を断ったと言う。村人はオグロヅルを天国の鳥として大切にしてきた。電気が通り、電線が張られたら、オグロヅルが怪我をして、もうこの地に舞い降りなくなってしまうかもしれない。だから彼等は電化を諦めたのだ。(現在は、国が村民の意志を考慮し、電線を地下に埋設して十分とは言えないものの電化が叶ったそうだ。)

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(ポプジカの谷 写真は引用)

 なんて欲の無い人達なんだろう。いったいどうして彼等はそこまで欲が無いのか?その根底には彼等が信じるチベット仏教がある。チベット仏教は自分の為に祈らない、他者(人だけでは無く、生きとし生けるもの全て)の為に祈ったり、善行を施した事が、徳となって、いつの日か幸せが自分に帰ってくると信じている。だから先ず自分の利益では無いのだ。一方我々の社会は欲望の塊だ。いやそれが資本主義社会の根本だ。GDPと言う数値が明快にそれを表している。国がどれだけ生産し、国民がどれだけ消費したか。

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 必要か不必要かは重要では無い。無駄であれ、浪費であれ、どれだけ国民が消費したかで金が潤い、社会が潤い、幸福がやって来る。そんな拝金主義が幻想に過ぎないなんて薄々解ってはいても一度信じたものは捨てられない。

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 放射能を海に撒き散らそうが、明日メルトダウンが起きようが、我々は原子力を止められない。自然破壊が進もうと、温暖化を始めあらゆる環境破壊が起きようとエネルギーを求め続ける。更には戦争までビジネスにしても、我々は欲望の火を消す事が出来ない。まるでこれでは仏教の(注)六道で言う餓鬼道では無いか…。

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(六道絵図 パロ・ゾン)

 我々は自由と言う言葉の響きが大好きだ。だが人々が欲望を自由に使い果たしたなら、その行き着く先は弱肉強食の畜生道の世界だろう。だが、動物だって、イルカや象は弱い仲間を慈しむ。世界の神々はだから人の欲望に制限を求め続けたのだろう。イスラームは日に5度頭を地に伏せ自分達の行いを反省させ、様々な戒律で人々の行いを制限させた。ユダヤ教には更に厳しい戒律がある。

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(ハッサン2世モスク モロッコ)

 いや宗教も人が作ったものと仮定するならば、それらは太古の人々が未来の人類が幸せを掴める為の置き手紙だったのかもしれない。将来に生きる子孫達が欲望のまま生きて滅びてしまう事の無い様に。しかし資本主義に生きる我々はその信仰対象すら神から金に変えてしまった。

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 欲の輪廻から解脱を目指す。ゴーダマ・ブッダの教えを敬虔に実践するこの国の無欲な人々。かの四代目国王が提唱した国民幸福量は、GDP至上主義の世の中にあって、世界の先進国を驚愕させたが、実はこの国ではそれほど驚くべき発想では無かったのかもしれない。この国民性があったからこそ四代目国王の発想が生まれた。

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 幼い頃の学歴競争に始まって、我々は常に競争社会に揉まれている。欲望を餌に我先にと…。此処ブータンの風景や人々と接してると、欲望と言う邪念から開放され身が軽くなる、何気無いもの達が、出来事が有り難く感じられる様な気持ちになる。何だか心が洗われ、在るべき場所に戻れた気がする。幸せの国ブータンは本当なのかもしれないなと思った。

(注)六道とは、仏教に於いて迷いある者が輪廻すると言う六種類の苦しみに満ちた世界で、天道、人間道、修羅道畜生道、餓鬼道、地獄道から成る。この苦しみに満ちた輪廻から、悟りの世界である涅槃へと解脱する事が仏教徒の目的。