ブータン旅行記 序章その3

 中国とインド、二つの巨大な国に挟まれて、時代の波に翻弄されていくシッキムとブータン

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 シッキムはイギリスの後を受け宗主国となったインドの命を受け民主化の導入を求められた。しかしそんな事を求められても、見渡せばシッキムは、イギリスが労働者として連れ込んだネパール系の人々の数が、元から暮らしていたチベット系の人々を圧倒している状態だった。そこでシッキム王は王家とチベット系住民に配慮した議会構成を作るが、それは民主主義に反しているとネパール系も譲らず、ゴタゴタが繰り返される。

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(シッキム ラストエンペラー 写真は引用です)

 そんな中、隣の国ブータンにも危機が迫っていた。1972年これまで際どい情勢を乗り切っていた三代目国王が早世してしまったのだ。後を継いだ四代目は未だ若干16歳。風雲急を告げる状態の中、万事休すの体制のブータン

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(写真は引用です)

 そして1975年シッキムはゴタゴタに耐えられず暴力沙汰になったのを見計らい、待ってましたとばかりにインドに介入されアッサリとインドの一部に編入され国王もろとも世界地図から消えてしまったのである。

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 この事件はどれだけブータンに衝撃を与えた事か?頼みの綱だった筈のインドがシッキムを併合し、そんな中、国政を守るは赴任したばかりの若干16歳の少年王、そして状況、抱えている問題はほぼシッキムと同じなのだ。

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(写真は引用です)

 しかしそんな折り少年王が打ち出した方針こそ国民総幸福量だった。それは

1.公正で公平な社会経済の発達
2.文化的、精神的な遺産の保存、促進
3.環境保護
4.しっかりとした統治

の4本の柱から成っている。此処で世界を驚かせたのは後進国にあるにも関わらず、経済発展を求めるより、1の為に2の条文を重要と見なし、寧ろ経済発展の速度の抑制を重視した事だ。ではいったいこの提唱にどんな意味が含まれていたのか?

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(写真は引用)

 北の中国はチベットを我が物にし、南のインドはシッキムを飲み込んだ。世界で唯一残されたチベット民族の国家の生き残りの命運を、軍事力も経済力も持ち合わせない状態で任された16歳の少年王。彼が唯一すがれたものが、この貧しい国を救っていける唯一の方法がチベット民族の国家としてのアイデンティティーだった。すなわち条文の2だ。

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(ブータンの風景)

 ただそれは諸刃の剣で、アイデンティティーを突き通す以上、それに従え無い者達による某かの反発は喰らうだろう。事実その後ネパール系の住民による暴動と難民化が問題となった。しかし先見に富む彼には覚悟の上の事だだったに違いない。だが、ただ単に我が民族のアイデンティティーを保ち難民を作ったのなら、世界中からバッシングを浴び弱小国ブータンは滅ぶ。かと言って現状をそのままにしても世界で唯一残されたチベット属の国家は消失してしまう。

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(ブータンの風景)

 そうした九死に一生の状況の中、決死の覚悟で世界に自国の方針と正当性を表明した、その証こそが彼の唱えた国民総幸福量だったのだと私は捉えている。

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(写真は引用です)

 彼はその後、国民総幸福量に基づいて、ブータンらしさを大切に保ちながら、資本主義をブータンに段階的に軟着陸させ、それが起動に乗ると、徐々に自らの権限を削除していき、世界の潮流に合わせ、王政から民主政へと平和的に移行させる事にも成功した。

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(写真は引用です。隣の子供は現国王)

 王がその権力にしがみつき国を滅ぼしてしまったり、不安定な状況を作ってしまう事は、隣のネパールやシッキムばかりでなく世界的に多い中、逆に王自身が民主化を成功させたのは非常に珍しい。

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(写真は引用です)

 そんな名君は2008年にその王位を現在の5代目国王に譲った。在位中にも国内全ての学校を訪問したと言う国王だが、隠居後は世話になった国民に直に触れるための旅に時間を費やすと言う。まさか水戸黄門を見ていたのではなかろうか?それは冗談としても最後の最後まで格好良い男だと思う。

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(写真は引用です)

 そんな偉業を成し遂げた男の後を次ぐ皇太子もさぞやプレッシャーが高いだろうなと思いきや、日本でオバサマ方を中心にブータンブームを巻き起こしているのだから心配は無用かもしれない。

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(写真は引用です)

 自分なりにブータンの歴史、 国民総幸福量の歴史を追ってみてブータンと言う国に更に興味を覚えた。次回は旅を始める前にもう一回、国民総幸福量に基づいた、ブータンの特殊な旅事情に関してお話を聞いて貰いたい。