2007チベット旅行記8

 ラサ旧市街を後にして、小さな見所を回りつつホテルに戻る。途中立ち寄った摩崖石刻で、チベット族の老人と子供に出逢った。彼等が呼ぶのでそちらへ行こうとすれば、そうじゃない。しっかり石刻を右に回ってから此方に来いと言う。そんなところにまでしっかりと教えを守っている事に感心した。彼等とはお互い言語が通じない筈なのに何故か会話を交わしていた。

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(摩崖石刻)
 新市街に戻っても夕食を中華食堂で摂りたく無くて、ちょっと離れた場所にある夜市へ向かった。其処の屋台街は驚いた事に全て回族、即ちイスラームの屋台だった。メニューこそ青椒牛肉等中華的なものが多いが、勿論豚肉は一切無い。白飯の代わりにナンがつく。日本人には何とも奇妙な組み合わせだ。

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(ラサの夜市)
 そんな少数民族が片寄あって暮らす山深き大地に圧倒的大多数の漢民族が押し寄せ彼等の大地を蹂躙していく。

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(ラサのイスラームの屋台)
 現在チベットが、ラサが、大きな転機を迎えている。侵略と聞くと大抵の人は武力によるものと思いがちだが、それはほんの序章に過ぎない。武力で制圧が完了すれば、侵略した側の民族が大量に流入する。彼等は戦闘員では無い、そこが非常に厄介な部分、何故ならイノセントに、無意識に、侵略活動を推し進めてしまうから。侵略した街で彼等が大多数を占め始めれば、当然街の文化も景観も彼等のものとなり、以前其処にあった筈の文化や景観は失われてしまう。これが侵略の第二段階だ。

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(洞窟寺院パラルプ寺)
 そして最終段階は教育だ。侵略した側の言語が使用され侵略した側の歴史感の下教育が行われる。やがて世代交代が進めば、侵略された側は自らの言語を失い、歪められた歴史感から民族のアイデンティティを失い、そして侵略した側に同化し一つの独立した民族と言う立場を失っていく。

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(尼寺アニ・ツァングン寺)
 嘗て中南米で繁栄したマヤやインカ文明も、スペインに滅ぼされ、彼等の言葉、文化、宗教を失い、今やキリスト教徒で話す言葉もスペイン語、最早オリジナルの言語の解明さえ学者の研究に頼るのみ、彼等が嘗ての民族衣装を纏うのは、祭の時か、観光目的で観光客からチップを貰う為である。こうした先住民族の悲劇は、決して昔話等では無く、世界中で現在進行形で問題となっている。アメリカのインディアン、オーストラリアのアボリジニイスラエルパレスティナ、そして我が国も例外では無く、
アイヌ琉球の民、こうした立場の弱い民族の文化が存亡の危機にある。

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(小昭寺)
 私が訪れた頃のラサは、正しく第二段階から第三段階へ移ろうとしている最中だったと感じている。街はポタラ宮等観光目的になるものを除き、あらゆる景観が中華的に変わりつつあった。学校での教育も中国語の授業が始まったと言う。追い詰められたチベット族が反乱でも起こそうものなら、それは中国政府の思う壺、圧倒的武力でそれを鎮圧し、それを理由に更なる支配を強化するだろう。しかし最早チベット族の怒りは沸点に達しているかと私には感じられた。私の今回の旅は、一つの偉大なる民族が滅ぼされていく、その過程を見せつけられる旅だったのかもしれない。それは、とても、とても哀しい旅だ。

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(中国が建てたチベット博物館では中国視点で歴史が語られる)
 しかし今回の旅で出逢ったチベット族回族漢民族、みんな素敵な人々だった。初日に出逢ったガイドにしろ、チケット争奪戦で出逢った彼女にしろ、みんな素敵な人々だった。いったい何の違いで彼等はいがみ合いを続けなければならないのか?旅を続ける中、様々な地域で民族同士の軋轢に遭遇する度に、いつも胸が締め付けられる様な想いになる。

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(ラサの川の畔にて)
 帰国の為一夜を過ごした広州のホテルから見下ろす風景は、当時の中国バブルを彷彿させる熱気に包まれていた。そんな夜景を見下ろしながら私は祈った。チベットの人々が、いつまでもマニ車を回し続けられる社会であって欲しい。マニ車よ!回り続けろ!いつまでも!と。

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(広州のホテルより)
 そんな願いも虚しく、それから約半年後、私の悪い予感は現実のものとなり、圧政に耐えかねたチベット族による騒乱が発生した。08年の騒乱の後も中国は着々とチベットへの漢民族の移入を進めている。観光事業促進としてツアー客は大いに集客する一方、ガイド無しでの観光は大きく制限されてしまった。ガイドと名の付く監視付きなら大いに歓迎と言ったところだろうか?チベット族に至っては、ダライ・ラマ氏の写真やチベットの国旗を所持していただけで投獄されている現状である。