2007チベット旅行記7

 食堂のカレーで腹を満たした後は満を持してチベット仏教の総本山とも言える大昭寺(チベット発音でトゥルナン寺)に向かった。敬虔なチベット仏教信者は遥か遠方から五体投地を繰り返しながらこの寺を目指す。その苦労の末に辿り着いた聖地ラサがこれだけ中国化されてしまっっている事は、彼等にとって悲劇としか言いようが無い。

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(大昭寺)
大昭寺の寺院内そのものがナンコルと呼ばれる巡礼路となっており、人々は右回りに巡礼を進める。屋上からは寺院前の広場と遠くにポタラ宮も見渡す事が出来るが、此処は嘗て中国共産党によるチベット大虐殺の舞台ともなった場所で、その模様はブラッド・ピット氏が主演したセブン・イヤーズ・イン・チベットにも記されている。

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(大虐殺の舞台となった大昭寺前、遠くにポタラ宮を臨む)
寺院を出て寺院の周囲に巡らされた八角街(バルコル)を歩く。今でこそ観光客向けの食堂や土産屋が集まる通りだが、チベット仏教徒に徒っては重要な巡礼路であり、必ず右回りでマニ車を回しながら巡礼する。彼等に倣って私も右回りで散策した。途中中華式のモスクを発見しビックリする。これはチベット族では無く、回族と呼ばれるイスラーム化した漢民族の建てたモスクであるが、こんな中国の山深い地方までイスラームが伝播している事には驚いた。

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(八角街バルコル)
しかしこんな民族的な文化が軒を連ねる此処周辺も、いつまでこのままでいられるのか?彼等は中国からしてみれば、マイノリティ。中国がチベットに侵攻して以来チベット族は二級市民扱いされ、政府は彼等を此処からセラ寺周辺の郊外に強制移住を計画中と言われる。

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(バルコルに建つ回族のモスク)
現にポタラ宮前には以前は宮で働いていた公官の住居が密集していたが、ダライ・ラマ亡命後は全て取り払われ、今では天安門広場の様な無愛想な何もない広場にされてしまった。これはウイグルの中心地であり、ウイグル族の心の拠り所であるエイティガル・モスク前広場も同様であり、中国政府により、それぞれの拠り所としているものへの破壊と、もしもの時に天安門事件の時の様に装甲車を使って対抗する者を簡単に踏み殺せる為でもあろう。

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(ポタラ宮から臨むポタラ宮前広場、嘗てはポタラ宮で働く公官の住居区だった。因みに広場奥の塔はチベット解放記念塔とか言う名前だ。事実はチベット侵略記念塔と称するべきだが…)
そんな想いでちょっと気を重くしながらバルコルを一周し大昭寺前に戻ってくると、それに追い討ちをかける様な光景が私を待っていた。チベット族が長い旅を終え、やっとの想いで辿り着いた大昭寺を前にして一心不乱に五体投地を繰り返して祈りを捧げていた。そんな中幼い姉妹も祈りを捧げていたのだが、その少女に覆い被さる様に白人と中国人がゴッツい一眼レフを抱えて、祈る少女を撮影していたのである。まるで動物でも撮影する様に。

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(大昭寺で五体投地する人々)
私は怒りが込み上げてきて、拳を握るとヤキ入れてやろうかと近づき、そしてすんでのところで踏み止まった。私を抑えたのは、お祈りしている幼い二人の清廉な姿が発するオーラ。外からやって来た者同士の揉め事で、その清廉なものを汚したく無かった。そう思わせる程彼女達の祈りには力があった。体の大きな外国人の大人にのし掛かられる様に撮影されても、微塵にも動じる事無く祈りを捧げ、すべき事が終わると大昭寺に消えていった。

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(大昭寺屋上からポタラ宮を臨む)
それは幼い子供の持つ純粋な力だろうか?信仰の力故だろうか?後には私も含め無様な外国人達が取り残されたかの様に佇んでいた