パキスタン旅行記12ガンダーラ2

 さてギリシャからガンダーラへ彫像を作る技術が伝わり、ガンダーラに仏教が伝達し、其処で両者が出逢ったとき仏像が生まれた。このロマンティックにも感じる仏像誕生の由来は本当なのだろうか?何でも疑問に感じずにいられない私はちょっとこの件を掘り下げて考えてみた。

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(足のみ残る仏像 ダルマラージカー)
 私はガンダーラに伝わった彫像を作る技術と言うものは、仏像誕生に於ける必要条件に過ぎなかったのでは無いか?と思っている。つまり他に十分条件が存在しているのでは無いかと言う事。おっと此処で難しい言葉が登場したので必要条件と十分条件の違いを説明しよう。

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(ジョーリアン)
 例えば大根と言う未知の植物が発見されたとしよう。果たして大根は食卓にあがる事が出来るだろうか?科学者が実験をしたところ、害は無い上、栄養もタップリあるとの事が解った。つまり大根は食べられると言う事だ。これが大根が食卓にあがる必要条件となる。

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(ジョーリアン)
 だけどそれだけでは食卓にあがるとは限らない。幾ら栄養があっても、不味かったら決して食べようとは思わないからだ。だから美味しいと言うのが大根が食卓にあがる十分条件と言う事になる。

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(ラホール博物館所蔵)
 即ちそれが成就する為に最低限必要な条件を必要条件と呼び、決定打となる条件を十分条件と呼ぶ。今回の場合、私はギリシャから伝わった彫像の技術は最低限の条件に過ぎず、他に決定打となる条件があったのでは無いかと推測したのである。

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(ラホール博物館所蔵)
 どうして私がその様な事を考え始めたのか?それはガンダーラで仏像が生まれたと同時にインドのマトゥラーと言う土地でも仏像が生まれたと主張があり、両者で仏像の起源を巡り争われていると言う事実があるからだ。

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ギリシャ ヘレニズム様式の柱 ラホール博物館所蔵)
 マトゥラーの仏像はガンダーラの西洋的顔立ちとは打って変わってどちらかと言えば私達がイメージする仏像に近い。即ち時を同じくして形式の異なる仏像が生まれた事になる。これは何を意味しているのか?

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(仏説法図 ラホール博物館所蔵)
 私は仏像を作る技術は既にガンダーラやマトゥラーに到達していた。しかし何らかの力によって仏像を作ることが許可されていなかった。しかしある時を契機に仏像の製作が解禁された、若しくは推奨されたのだと思う。だからこそ同時期に仏像が各地で生まれる事となったのだろう。

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(ラホール博物館所蔵)
 調べてみるとやはり仏教は、誕生以来仏陀の偶像を拝む風習は無かったし、それを拒んでいた節もある。仏像が出来るまでは仏塔や菩提樹等シンボリックなものを崇拝する事が常だった様だ。ではどうして彼等は当然仏像を建立するようになったのか?

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(断食仏陀 ラホール博物館所蔵)
 私はその疑問に直面した時、私の脳裏を掠めたのはダヴィンチ・コード!つまりキリスト教の改編の事実だ。

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(断食仏陀 ラホール博物館所蔵)
 此処で話は大きく西洋へと飛ぶ。キリスト教ユダヤ教から派生した宗教だから、当初は偶像崇拝は固く禁じられていた。しかしキリスト教ローマ帝国の国教となった時、ローマの政治的目論見により、キリスト教はその根幹を大きく変化される事となる。

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(ラホール博物館所蔵)
 ヨーロッパはキリスト教伝来以前、ギリシャ神話を見れば一目瞭然、ゼウス、ポセイドン、アポロン等多くの神々を信仰する偶像崇拝の土壌だった。此に対して神は見えない存在であり、キリストはその預言者に過ぎないと言うこれ迄のキリスト教の設定では、ヨーロッパでは受け入れられないとローマ帝国は判断した。そして以降キリスト教は偶像を受け入れ、キリストやマリア像が礼拝の対象となり、ヨーロッパ全体、そして世界へと普及していった。

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(ラホール博物館所蔵)
 私はそれと同じような事がガンダーラでも起こったのでは無いかと推測したのだ。

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(顔がギリシャ仏陀 ラホール博物館所蔵)
 当時、ガンダーラクシャーナ朝が仏教を保護した為、全盛期を迎えていた。それだけでは弱い、他に同時期に起きた大きな仏教の変遷が無かったかを調べた。あった!とてつもない変化が!

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(タキシラ博物館所蔵)
 それは大乗仏教の誕生だ。それまでの仏教は出家して厳しい戒律を守り修行を重ねる事で悟りを開くと言うスタイルだった。それは現代では上部座仏教と呼ばれ、インドから東、ミャンマーカンボジア、タイ、ラオスへ伝播した。

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(タキシラ博物館所蔵)
 一方、この時代に、上部座仏教は己の探求に過ぎず、これでは多くの人を救う事が出来ないと言う観点から、多くの人々を救済する事を目的とした大乗仏教が生まれた。その他特徴として出家する必要が無い。戒律は上部座と比べて大きく緩い等があげられる。

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(これは完璧ギリシャですね タキシラ博物館所蔵)
 先ずこの大乗仏教の誕生を見て私が感じたのは、

「都合が良いな!」

 と言う事。当時仏教を保護していたクシャーナ朝にしてみれば、宗教を政治的に使いたかったのは当然と思う。しかし当時の仏教では出家できる者に限られていた。国としてはより多くの人が、簡単に信仰する事が出来れば、より宗教も信者が増え、それを利用した国も繁栄したと考えても不思議では無い。

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ギリシャのコイン タキシラ博物館所蔵)
 だとすると大乗仏教は、キリスト教ローマ帝国の介入により大きく変化したと同様、仏教もクシャーナ朝の介入により大乗仏教が生まれたのでは無いか?と言うのが、私の大胆な推論だ。そしてそれを推進させる為にも、もっと庶民に簡単にアピール出来るもの、即ち仏像の製作がこの時代に解禁となったのでは無いかと私は想像するのである。

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(タキシラ博物館所蔵)
 そしてその大乗仏教の伝達ルートは、まるでクシャーナ朝の支配地域をなぞる様に、インドからガンダーラを抜け、カイバル峠を登り現在のアフガニスタンに入り、バーミアンへ。そこから北上した仏教はウズベキスタンサマルカンドからシルクロードに沿って東進を続け、中国に到達、韓国を通じ日本へと辿り着くのである。だから日本の仏教も大乗仏教と言う訳だ。そして中国から旅だった玄奘三蔵も、仏教の伝達ルートを遡り、シルクロードを西進し、サマルカンドからアフガニスタンへ下り、ガンダーラを経て天竺へと入るのである。

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(タキシラ博物館所蔵)
 さて此処で私の推測、仏教版ダ・ヴィンチ・コードを纏よう。ガンダーラに彫像の技術が伝わり仏像が生まれる必要条件がガンダーラに備わった。そしてクシャーナ朝が仏教を保護し、更に拡散させる為に大乗仏教が生まれ、その拡散する需要に即して、それまで禁じられていた仏像の製作が解禁となった。それが十分条件となり仏像がガンダーラの地で誕生したのである。如何であろうか?真偽はともあれ歴史の紐解きに没頭出来る事も遺跡巡りの醍醐味である。

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(タキシラ博物館所蔵)

 余談になるが、私がパキスタンを訪れた季節は一番快適な季節であった為、各地の史跡では多くの地元の修学旅行の学生で溢れていた。私は思わずガイドに語った言葉がある。

パキスタンの学生さん達はなんて恵まれているんだろう?此処を学ぶ事で、ギリシャから中国、ユーラシア全体の歴史を学ぶ事が出来るんです。パキスタンはユーラシアの東と西を結ぶ、非常に大切な場所ですね!」

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(タキシラ博物館)
注)ラホール博物館の仏像は様々なガンダーラ遺跡から発掘されたもので、タキシラだけとは限りません。タキシラ博物館は写真撮影禁止ですが、ガイドさんの計らいで特別、許可を得て撮影しています。