パキスタン旅行記11ガンダーラ1
早今回の旅も最終日を迎えた。先ずはパキスタンの首都イスラマバードにあるシャー・ファイサル・モスクを見学した。イスラマバードはワシントンDCやキャンベラ等の様に首都として新しく作られた街であり、街はイスラームの国には珍しく碁盤目状に出来ている。モスクはその記念にサウジアラビアの王家から寄贈されたものだ。純白のモスクで現代的なデザインで作られている。
(シャー・ファイサル・モスク)
そんな首都から北西に走る。途中見晴らしの良い丘に登る道に、前回話したGTロード、シェール・シャーが築いたそのものの道が残されている。
(GTロード)
そこから続く丘から周囲を見渡した。石切場が所々にありデコトラがそれを積み出している。その向こうに今日向かうガンダーラ遺跡のタキシラがある。紀元前326年、ペルシャを滅ぼしたアレキサンダー大王がこの地を訪れた。其処にはタクシャシラ(切り出された石の都)と言う街があったと言う。即ちそれがタキシラとなった。その石切の風景は現在まで変わらない。
(タキシラ遠望)
幼い頃TVにかじりついて見た西遊記、そのテーマソング、ガンダーラを聞き幼い頃から憧れていた大地、余りに遠いと歌われたその場所が目前に広がっている。
(石組の緻密さで年代が推定出来る)
タキシラ遺跡はガンダーラ遺跡であるが、様々な年代の遺跡が至る処に点在している。その中から代表的な三ヶ所の遺跡を訪れた。まず最初に私が訪れたのはダルマラージカー。紀元前3世紀にマウリヤ朝のアショカ王が築いたもので、中央に巨大な仏塔跡が残り、周囲には小仏塔跡が多数残されている。
(ダルマラージカーの大仏塔跡)
続いて向かったのはシルカップと言う遺跡。紀元前2世紀にバクトリアのギリシャ人によって作られた都市遺跡だと言う。パキスタンでまさかギリシャ遺跡に出逢うとは思っても見なかったが、言われてみればギリシャ都市独特と整然とした都市作りがされている。そしてその都市プランはイスラマバード建築にも生かされたと言う。
(シルカップ都市遺跡)
勿論彼等の後も仏教徒が暮らしたので、その後の仏教徒の跡も残されているが、中でも有名なのが双頭の鷲の仏塔と呼ばれるものだ。仏塔は最早残されていないが、その基壇となる部分にギリシャのコリント式の柱のレリーフ、そしてその間に ペルシャ起源の 双頭の鷲のレリーフが残り、ギリシャ、ペルシャそしてインドと言う三つの文化の融合が表現されている。
(双頭の鷲の仏塔跡)
(拡大写真;ギリシャのコリント式の柱のレリーフの間にペルシャ起源の双頭の鷲のレリーフが残る)
こうして東はインド、西はペルシャやギリシャからの民族と文化の流入と融合を繰り返しながらガンダーラの独特の文化は栄えていった。最後に向かったのはジョーリアン。紀元2世紀、クシャーナ朝時代に作られた僧院で世界中から仏教を学びに此処へ信徒が集まったと言う。
(ジョーリアン僧院)
このクシャーナ朝時代から仏像が作り始められるのだが、仏像製作の技術もギリシャから伝わったものと言われ、初期の仏像はとても今の仏像とは似ても似つかない西洋風の顔立ちである。また仏塔には仏塔を支えるアトラスが彫られていて私を驚愕させた。アトラスと言えばギリシャ神話に登場する神である。東洋と西洋の文化の融合が此処でも顕著に見る事が出来た。
(仏塔を支えるアトラスの彫刻)
そんなガンダーラも5世紀に入りエフタルが侵入する頃から徐々に衰退していった。7世紀に玄奘三蔵法師が訪れた頃には最早廃墟に近かっただろうと言われている。インドでは其れ以降仏教は衰退してしまったが、玄奘等の活躍により仏教は東の国々に伝えられ、今日現在に繋がっている。
(ジョーリアン仏塔)
実は私はこのガンダーラで仏像が生まれた理由に、単に西洋と東洋の文化の融合だけでは無い、深い理由があったのでは無いかと推測している。次回それを紹介したいと思う。そこではラホール博物館等で見た幾つかの仏像の写真を共に紹介しようと思う。