パキスタン旅行記10ロータスフォート

 四泊を過ごしたラホールを後にして本日はイスラマバードを目指す。その途中世界遺産にも認定されているロータスフォートを訪れる事が今日の命題だ。車は順調に西北を目指す。今日も数々のデコトラを追い抜きながら。途中家畜のバザールがあったので寄ってみた。

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 山羊や羊、牛や馬が売られている。馬やロバは車やバイクが渋滞するラホールの街中でも未だ健在で活躍している。羊はムスリムの重要な食材だ。此処でも家畜を撮していると家畜ばっかじゃなくて俺らも撮せとばかりに飼い主の催促が入った。

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 順調にロータスフォートに到着した。この城を築いたのはアフガニスタン出身のシェール・シャーと言われる人物だ。建造は1540年。え?あれ?と言う事はムガル帝国が此処を支配していた時に被る。何故だ?

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(ソハル・ゲート)
 ムガル帝国の歴史を振り返れば、ムガル帝国は2代フマユーンの時代に一旦シェール・シャーにより滅ぼされていた。そのシェール・シャーが築いた城塞こそ、このロータスフォートと言う訳だ。

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( シャー・チャンド・ワリ・ゲートから 大臣マン・シングの宮殿を眺める)

 この城はラホールフォートとは違い王族の居城としてでは無く、北方から押し寄せる放牧民族の攻撃から防御する為の実戦を推定した城だ。だからラホールフォートの様な宮殿等の施設は殆ど残されていない。しかしその素晴らしさは周囲の切り立った崖の上に築かれた、現在でも一目瞭然で解る難攻不落な城壁にある。城壁の崩れたところから連なる城壁を撮影しようと身を乗り出して固まった。足元は奈落の底なのである。

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 突如アフガニスタンから攻め寄せムガル帝国を一旦は滅ぼし、この城を築いたシェール・シャーとはいったいどんな人物だったのであろう?

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 調べてみて驚いた。彼は他にも素晴らしいものを作り上げた建築王でもあった。その最たるものは、グランド・トランク・ロード(通称GTロード)と呼ばれる道。アフガニスタンのカブールからラホール、インドのデリーを経由して遠くコルカタまで建設。その道筋は代々の王やイギリスが修復を重ね、現在でも幹線として利用されている。そして私は正にその道を走り旅を続けている。

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 更に彼の偉業は建築だけに留まらない。政治の改革、税率の変更、通信の改善、貨幣制度の改良、公平な司法等あらゆる部門に及ぶ。そしてその中でも秀でた事はイスラームヒンズー教の融和を図った政策だった。こうした事を僅か一代で築き上げた彼は稀有な名君だったと言える。

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(果物の屋台)
 しかしそんな彼が開いた王朝も彼が亡くなると弱体化し跡目争いの隙を突かれフマユーンのリベンジの前にしてあっさり滅ぼされてしまう事になる。

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(巨大な階段井戸)
 此処まで読んで「あれ?」って感じてくれた方がいたら嬉しい。そう「イスラームヒンズー教の融和って、かのムガル帝国の名君アクバルの偉業では無かったっけ?」って。

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( 大臣マン・シングの宮殿から シャー・チャンド・ワリ・ゲートを眺める)

 そう!彼はフマユーンの息子、父がシェール・シャーに敗北して諸国を逃亡しなければならなくなった時、幼いアクバルはアフガニスタンに人質とされていた。そんな屈辱の日々の中、彼は復活を望みながらシェール・シャーと言う英雄が行う政治を見つめながら学んだに違いない。この国を納めるには何が必要で何がいけないかを。

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 こうして帝国の復活が叶い、自らが皇帝の椅子に座った時、周囲から危うい目で見られていた僅か13才の少年王アクバルが、回りの不安を余所に名君と成長していった秘密には、屈辱の日々にシェール・シャーから学んだものが生かされたからに違いない。

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 再び城壁によじ登り、目前に連なる城壁と荒野を眺める。いつの時代も良く学び、そして後世に繋げたものが名を残す。現世に及んでも、世界を見渡せば未だくだらない破壊と殺戮が繰り返されている。そんな中で我々は何を学び、何を後世に繋いで行けるのか?ロータスフォートに風が吹き抜ける。此処で繰り広げられた歴史に胸が熱くなった。